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ブラタモリ日記その33 「北海道・稚内 #247」 (2023.9.16)

今回のブラタモリは稚内。日本最北端の地として、バイク乗りの方々はよく目指すスポットのようだ。しかし残念ながらボクはバイクには乗らない。どちらかというと、音楽を聴きながら車をポンポン走らせる派である。

番組の冒頭で、タモリさんは日本最北端の地の碑から樺太(サハリン)を眺めた。どうやら晴れの日には樺太がくっきりと見えるらしい。ボクは日本最北端にはさほど興味はわかないのだが、この樺太にはとても興味がある。

なぜなら太平洋戦争末期において、ソ連が侵攻してきた地だからだ。番組でもあったように、それまでの樺太の南側は日本の領土だった。そして稚内から樺太へ定期航路があったようだ。

しかし戦争末期、ソ連の満洲侵攻と同時期に、この樺太の国境付近でも日本軍とソ連軍は激しくぶつかった。そんななかで日本はポツダム宣言を受諾し、戦争は終結。

ところがだ。ソ連はその終戦のどさくさに紛れて、なんと国境をやぶって侵攻し、千島列島にも上陸してきたのだ。そのとき、樋口季一郎司令官ひきいる日本軍は、武力解除の命令を受けていたが、このままでは北海道にまで侵攻される恐れがあったため、独断で自衛戦闘に踏みきるのだ。

そう、この樋口司令官の判断がなければ、もしかするとこの稚内にもソ連軍が侵攻してきたかもしれないのだ。そして成り行きによっては北海道、とりわけ稚内などの北側がソ連の領土になった可能性もなくはなかったのだ。実際、スターリンは樺太、千島列島、そして北海道北側を占拠するよう命令を出してたからね。

番組の終わりにもあったが、現在の稚内は漁業がさかんで美味しい魚がたくさんとれる。なかでもホッケ、ホタテ、タコは水揚げ量日本一だそう。

そんな豊かな稚内。終戦時に一歩まちがってたら漁業権がソ連のものになったかもしれなかったのだ。つまり、あの大きなホッケがみんなロシア人の胃袋のなかに入ることになってたのかもしれないのだよ。

いや〜〜〜〜ッ、それだけは許せんッ。なんてったってボクはホッケ大好きだからね。あとホタテも。そう考えたら、いまの日本人が北海道の海の幸を堪能できるのも、日本のために命をかけて戦った先人たちのおかげなのだ。

いつか日本最北端の地の碑に行くことがあったら、そんな先人たちに思いを馳せながら樺太を眺めたい。あとホッケも食べたいね〜。



日本最北端の地の碑

「“ 日本最北端 ”で暮らすとは?」

日本最北端の地 樺太(サハリン)まで43km

実際は択捉島(えとろふとう)の北端が日本の最北

厳密にいうと「通常交通機関で行ける離島をのぞいた最北の地の碑」

ふたつの岬

稚内は2つの岬が飛び出た形


宗谷丘陵
風力発電

宗谷丘陵(そうやきゅうりょう)→ 風力発電の風車が50基以上

冬場の風力は平均で9.0m/秒

寒さと風の厳しさで木があまり育たない

冬の平均気温は0℃以下

北方警備 → 南下政策をとるロシアに幕府は脅威を感じ、台場(砲台)を造って警備をおこなっていた

運上屋 → 松前藩とアイヌの人たちとの交易拠点。アイヌの海産物を買ったり、酒や刃物を売ったりしていた

中国絹織物

清朝の絹織物 → 樺太を経由して稚内へ

ガラス玉や猛禽類の羽も取引されていた

稚内は外国のものが手に入る貴重な町


稚内駅
北防波堤ドーム


稚内桟橋駅

最北の駅 稚内駅 → 昭和3(1928)年開業

北防波堤ドーム → 昭和11(1936)年完成

稚内桟橋駅 → 昭和13(1938)年開業 → 1945年廃駅

稚内桟橋駅のすぐとなりに港

日露戦争に勝利して樺太の南半部が日本の領土に → 定期航路

製紙工場がこぞって樺太に進出

樺太へ大量輸送できる物流拠点

樺太には日本唯一の陸の国境があったため「国境観光」ができた

ノシャップ岬の岩礁地図

岩礁 → 水中に隠れている岩や水面にわずかに出ている岩

稚内の海には平らな岩礁が広がっている

埋め立てに向いた岩礁 → 港に適している

頁岩(通称ページ岩)

頁岩(けつがん 通称ページ岩)→ 薄く剥がれやすい性質をもつ

剥がれやすいので切り崩しが簡単

風化しても程よい大きさを保つので、埋め立て向き

稚内桟橋駅は7年弱で廃駅

1945年終戦、樺太航路が途絶える

稚内漁業
稚内産魚の干し物
稚内産ホッケ一夜干し

現在の暮らしの中心は漁業

2018年水揚げ量、ホッケ・ホタテ・タコが1位

西は日本海、東はオホーツク海

強い風が干し物に適している

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