011-飛躍する人生を生きるためには

 美しい心の状態と苦悩の心の状態で同じ選択をした時、何が違うのかがちょっとわかった気がした。
 自分を生きるってどういうことか、というのが多分これまでの私の人生のテーマだった気がする。テーマすら漠然としてたけど、なんかしっくりきたな。
 いろんなことに依存しまくりの今までの人生だったけど、苦しかったのはこの自分を、そして自分の人生を生きてなかったからだった。
 あの血便が出た恋愛を経て、ようやく34歳にして自分で自分を幸せにする、と決めた時、ようやくやっとスタートに立ったんだろうなと振り返って思う。

 でも、じゃあ、自分で自分を幸せにするって一体どうやって? ってところが今の今まで漠然としてつかめてなかった。自分を生きるっていうのも同じく。
 自分に向き合って、自分の本心に沿った選択をすること、って今まで思ってた。確かにこれも間違いはないけど、抽象度が高くて理解しにくいなーと思ってた。
 ある意味、どんな選択をとっても結果の責任を引き受けること、だと思ってた。これも間違いじゃないよね。でも、なんかこれだけだとしっくりこなくって。

 過去、会社員から起業するって決めた時、ご飯が食べられなくなってしまう、生活が成り立たなくなってしまうという恐怖がものすごかった。このリスクを取りたくなかったからほんまにかっこ悪いぐらいグダグダする期間を自分に許して、もう、もしご飯食べられなくなったら、絶対戻りたくないって思ってた実家にお世話になろう!!! と腹をくくってバンジーを飛んだ。
 その結果、ずっと停滞してた自分の人生が手に入ったんだよな。ずっと欲しかった自分にピッタリのパートナーと結婚して、自分の好きなことを仕事にして会社員時代よりしっかり収入も得ることができて、それまでやりたいと思っていたことも全て叶えたのに、貯めようと努力しても貯金できなかった自分が全て叶えてもそれまでよりお金も自然と貯まっていた状態にまでなった。本質の自分を生きるっていうすごさを体感した時期だった。

 これを振り返って思うのが、「どんな結果になっても受け入れる覚悟で自分で自分の道を決める」これがやれてるかどうかなだけなのかなと思った。
 確かに、不本意な選択であっても全ては自分で決めている。それは例外なく誰でもそう。辞めたくても辞められない会社にい続けてしまう、っていうのもしょうがなくいるわけで自分で決めてるわけじゃないって思ったとしても、でも最後はそこにいるって決めてるのはあんたでしょ、って言われたらそうとしか言えない。誰も辞めるなとも言ってないし、自分以外、そこにとどまるという強制はできないから。

 でも、本質的に自分で決めるとなると、絶対的な自信みたいな土台感が生まれるはずなの。選択したことに後悔は生まれない。それがないってことは、外側からは見えない自分がしがみついている理想像を介して選択してるってことだと思った。

 理想像にしがみついてる苦悩の状態での選択は、自分で決めてる感じがない。例として、出世したいっていう思いがあったとして、それが自分の望みだと思っているとする。そのためには上司に気に入られて評価を得るっていう選択をとった時、ほんとはしたくないと思っていても、上司がいうならば、自分を合わせていかなければいけないと思ってしまう。じゃないと出世どころか、首になってしまう可能性だってある。そんなことをしてる時、他人から見たあなたがそれを望んでるからそうしてるって思うようなことであっても、自分としてはなんだか自分から乖離したような気持ちになると思う。
 これは出世したいって理由がどこから来るのかっていうのを見て行くと、自分の人生で大切にしたいビジョンや思いが中心にあるかどうかっていう違い、とも見れる。
 出世したい、が(生きられなくなってしまうという不安からの)お金のため、生活するため、とか、誰かに認められるため、だとしたら日々、我慢と忍耐、みたいな自分の人生を仕事に費やす時間になる。

 美しい心の状態だと、出世したい理由が自分の内側からの想いからの選択になるから、大切な家族を守るため、だったり、その仕事で社会に貢献していきたい、など、理想像を埋めるための選択じゃなかったら自分で決めてそれをしているという感覚になるので、やらされている感も湧かないし、仕事にやりがいを感じたり、日々研鑽することすら楽しくなるんだろうなと思う。その方が仕事の効率も上がって、結果、出世したりするんだけど。

 私は前者の苦悩の状態で前の会社にしがみついていたから、本当に会社から求められる人材にならなければ価値がないのに、それになりたくなくって、本当に葛藤がすごかったのです。
 上司から求められる理想像は先輩のような成果を出したり働き方をすることを求められてると思っていて、そうなれなければ評価されない、と思い込んでいました。でも、その理想像の先輩の生き方は、私にとって一番こうなりたくないっていう生き方をしてる女性だったから、私はそんな風にはなりたくなかったから、上司が提示するような人になるっていうのには応えられないし、会社から評価されない人間なんだ、と苦しんでた。でも、上司にもまさか一人の人の人格否定になるから、頑張りたくない理由をいうこともできなくて。
 頑張れない自分っていうものも自己批判していた。なんで頑張れないのか、わかってなかったんだよね。ちゃんと自立して生活をしている人っていうのが理想像で、正社員でもなくなって生活できなくなるとそのちゃんとした人っていう基準から外れることが怖すぎて、会社に、上司にしがみつきまくってたんだと思った。ここでこんなに結果が出せないやる気のない自分なんだから、辞めたらどこに行ったって生きていくことができない、と信じてましたから。これ、勘違いの妄想でしかなかったんやけど。
 でも、今、生きてるし、あの頃より100倍幸せなんやけどな。

人生を飛躍させるには

 こうやって前の状態より飛躍するってこと、誰の人生の中でもあったと思う。振り返ると、その時、いろいろ悩んで決断したことって、誰がなんと言おうと自分で決めたっていうことを選択した時だったんじゃないかなって思う。
 先が見えなくても、このだれかの期待って言うものを一切外した自分はこうしたいを自分で選んだ結果、想像以上の未来が待っていた、っていう。

 その時の選択はめっちゃシンプルに親とか、周りの人の目を入れない、自分の想いにただただ答える選択だったんじゃないかなって思う。
 最近、苦悩状態から選んだことって、なんか鳴かず飛ばずというか、結局、何にもなってないっていうことが続いてて、でも、一見自分で決めたことだと思い込んでたけど、よくよく考えたら理想像を埋めるために選択した割合が多かったな、という気づきがありました。だからかー、って納得。
 まず、苦悩であるということにも気づいてなかったというのが最近の大きな気づきなんだけども。

 私は、子供がいても仕事の結果をずっと出し続けるパワフルウーマンっていう理想像にしがみついてたのだけど、それに気づかず、仕事のためになるからと、講座やセッションなどの学びをお金をたくさん繰り返していたけど(お金をかけることも覚悟の形だとしがみついてた。たくさんお金使えば覚悟できてるのかと思っていた)、過去、形になった選択をした時と、この理想像にしがみつきながら選んだ形にあんまりならなかった講座、何が違うのか、ようやくわかった気がしました。

 あと、苦悩で講座やセッションを受けてることで気づいたのが、セッションしてくれる人や先生が、正しい道を教えてくれる、または自分が選んだ道をこれであってるよって認めてくれる存在にしてしまっていたこと。
 私自身の考えや想いに肯定し、共感してくれて、あってるよって言ってくれる人がいると安心するから、それを求めて受けてたんだなぁということも気づいた。
 私は人生の選択を間違えない人っていう理想像にしがみついてたことが根本にあって、でもツッコミ入れたらさ、間違えない人生ってなんぞやって話やんって思った。世間一般に言われる、「良い人生」っていうのからはだいぶ卒業してたけど、見えない世界を見えてる人だったり、エネルギー読める人だったり、宇宙意識に精通してるような感じの人、っていうものに、自分の人生の選択をまた委ねようとしてたんやなって思った。
 良い人生、なんていう形のものはなく、自分の目の前に現れた出来事や人を自分の本心から出る答えを、自分にとっても相手にとっても愛のある選択を選んで行くこと、そして自分がそうしたい、と思う選択をすることを続けて行くことのほかにいい人生だったって思えることってないんやなって気づけた。いい人生にしなきゃ幻想から抜けられたように思う。

 やっぱり人生の選択をする上で、自分を生きるっていう、美しい心の状態での選択、やっぱり大事だよなって思った次第。理想像、どんどん手放して行くぜ!
 そして自分を生きる、自分の人生を生きること、やって行こうって思った。

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