見出し画像

足りないのは、お金でもスキルでもなく、「直接性」かもしれない

▼ほかる は『イスラムが効く!』を手に入れた!
▼これまで「社会」に対してなんとなく抱いてきた、何とも言えない気持ち悪さの理由、そして自分に足りなかったものが解消された!
--
以下、あなたにも効くかもしれない、イスラムの世界観。

1.【直接性】いつでも1on1/もの(実態)と名前(概念)は一致していなければいけない

・神の前に一人立つ

教会や聖職者、僧侶など、神(仏)と自己との間を仲介するものがない。従って、自己の評価は自分でするしかない。神に対する誠実さは、自分にしか分からない、他人任せにできない、他人を責められない※。
∴人の言うことはあまり気にしなくてOK。
天知る、地知る、我知る。自分の功罪は自分が一番よく分かっているはずなのだ。

※人為でなく因果関係はっきりしない事象については、「全ては神の思し召し」で受け流す。(人為なら同害報復)考えても答えのでない因果は追いすぎない。(例:神が認知症に連れて行った。なんで成果がでないんだ?→神が望まなかったから!)

tips:啓蒙が受け入れられないのは遅れているからではない、必要ないからだ。
イスラームには、教会も聖職者もいない。そのため、ヒエラルキー(hier=聖なるarchy=支配)はなく、「天は人のうえに人を作らず」は当たり前。神の前においては皆等しく孤独であり、逆に言えば個人の自由(自己責任)は確保されている。わざわざ個人の自由獲得を掲げて宗教と闘う必要はなかった。

・社会保障も、直接性重視で。名前と実態を一致させる。

「保障=お金をあげること」ではない。お金は与えられた目的以外に使うことができてしまう。直接性も低い。
つまり、「生活保護」と言うなら、そういう名目でお金を支給するのではなく、仕事がないなら仕事を、住むところがないなら家を与える、ということになる。

tips:お金は汎用性が高く、授受しやすい。本来はお金という媒介品を使うのではなく、不足しているそのものを渡すべきだが、現代においてはお金でないといけない場合も多々ある。
この時、お金を渡していいかどうか、全ての状況に適用できる判断ルールを作ると、無駄な書類が山ほど増えたり、本当に必要な人に行き渡らなかったり、誰にとっても良くないものになることは既知の事実。イスタームでは、お互いをよく知っている「顔の見える範囲」で、貸主が人/ケースごとに判断をする。お金を渡して、きちんと目的どおりに有効に使える奴か?は貸主が判断すること。判断を誤り、持ち逃げ/浪費されても、自己責任。渡した側の判断ミスでもある。

2.【善悪】神に対する罪と、人に対する罪は別。

・神に対する罪:悪いことをしてしまったら、善いことをすればいいじゃない

大前提として「人間はルールを破っちゃう生き物」という認識がある。そのため、悪行(神を怒らせること)をした場合の次の行動は、
×跪いてもうやらないと誓う(懺悔、反省)
○善行で帳消し(困ってる人を助ける)
となる。前向き(?)。

また、「悪い」試練(病気、不幸)は、耐えるだけで善行。来世の罰の前借りでもあるから、苦しければ苦しいほど、耐えれば耐えるほど幸せになれるとも言える。逆に、「良い」試練のほうが厳しい。健康、才能、富を持っていれば持っているほど、それらを使って善いことをする義務がある=神様からの風当たりはきついので大変。

tips:法(ルール)というのはもともとあるものであり、見つけ出すものであって、作るものではない。法律は権力者からの命令という位置づけ。

・人に対する罪:やられたら、やり返す、同じだけ。

人為による被害に対しては、当事者が加害者に受けた被害と同等の罰を与えることが認められている※。
人対人の問題は当事者同士で直接解決する。自分が被った分を相手にお返ししておあいこにしたらチャラになるから許す。国家にも、他人にも、人を罰したり赦したりする資格はない、という立場だ。

※殺人だけは、被害者がやり返せないので親族がやり返すことになる。
殺人の罪が重いのは、やられてもやり返せない、理不尽な一方通行性のせいなのかもしれない。

tips:日本では、罪を犯すと罰として「懲役」が言い渡されるが、懲役はまっとうな人間になるように「教育」することであり、被害者が受けた被害・苦痛とは別の苦労を与えるシステムとなっている。罪の重さ・許すかどうかを決める権利は被害者には与えられず、司法機関に任せるしかない。

【家族】家は国家なり。世界最強はお母さん

・ファミリービジネス中心:客か?お客様か?それが重要だ

ビジネスにおいても、もちろん直接性重視。リアルな関係・顔の見える範囲で、ファミリービジネスをするのが基本。そのため、「法人格」を持った「会社」という抽象概念の箱があって、そこに人が所属しているという考え方はあまりない。一族で団結して、それ以外と喧々諤々していく感じだろうか。
身内・仲間・客(guest)は全力でもてなし、お客様(client,customer,buyer)とは全力でやり合う。お客様は神様じゃない、試合相手だ。

tips:血の繋がりか、和の繋がりか
アジア圏にはファミリービジネスが多い。ところが、日本では優秀な人材を養子にして跡を継がせるのが割と当たり前で、血縁にはそれほど拘りがなく、〇〇家などの名の下にある「共同体」を守る、実はシビアな実力主義社会だったとも言える。血族より共同体の存続・繁栄が重要で、「和」を保つことに重きが置かれてきたため、日本の「家族」は、その一員が世間に反することをした場合に監視または矯正、もしくは追放する。しかし、イスラームにとっての「家族」とは、そんな時にこそ世間から守ってくれる存在なのだ。

・家庭と社会進出

男であれ女であれ人間は「家」にいるのが基本、家にいるのが一番幸せ。
父親は扶養義務があって出ていかないといけないから可哀想。
そして家の中ではお母さんが一番偉い=世界最強の権力者は母。

tips:イスラームには、「働く」という言葉がない。「労働」は「アマル」という言葉で訳されるが、「アマルしろ」は善いことをしろという意味。また、稼ぐ(富を手に入れる)は、どちらかと言えば悪行。
そもそも労働とは、ヨーロッパ・キリスト世界においても、楽園を追放されたアダムとイブに科された苦役であり、いわば懲役であり、避けられるもんなら避けたい、やらなくていいならやらないに越したことはないものだった。
資本主義によって、あたかも労働が価値のあることであるかのように宣伝され、金にならない家事が貶められ、女性の社会進出が謳われたが、社会への進出なんてしなくていいなら極力しないほうがいいのである。

・新しい家族の生成(結婚)

キリスト教では「死が二人を分かつまでの愛」を誓うが、もちろんイスラームですから、「人間の誓いなんて信用できない、明日のことも神様しか分からない」という考え方が基本。
よって、結婚はファミリーとファミリーの契約・同盟であり、貴重な人材を譲り渡すのだから、婚資の交渉をするのが当たり前。結納金として先払いだと「お金を払って買う」ように思えて嫌な場合は、契約解消(離婚)時に違約金として払う後払い方式で締結することも可能だとか。

【まとめ】

1.キリスト圏の土台が愛だとしたら、仏教圏は死、イスラーム圏は生・リアルな生活・ビジネス・目に見えるもの...みたいな直接性・現実・合理・実益に特化した思想なのだろうと思う。具体的な「生きる知恵」が欲しいなら、イスラームを学んでみるのがいいかもしれない。

2.最近つくづく思うのは、「抽象概念が幸せにするのは集団であり、人を幸せにはしない。」ということ。この点において、イスラームは徹底して「個」を大切にしている思想であると感じた。建前と虚栄、抽象と形骸を愛して止まない我々にとっては、非常に学ぶものがあるのではないだろうか。

曖昧模糊とした世界に嫌気がさしたらぜひ一読を。


全ては、世界平和のために。  ほかる

--

なお、まとめを除く本文は全て、ミシマ社「イスラムが効く!」(内藤正典、中田考・著)を参照した内容であるが、大量の省略・言い換え・自己解釈が含まれているため、正確な理解のために以下を精読いただくことをお勧めする。


最後までお読みいただきありがとうございます♪