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蝦夷の時代7 コシャマイン蜂起の結末

コシャマインを書いた小説

昭和11年第三回芥川賞は福岡生まれの鶴田知也が受賞しました。

北海道を舞台とした小説としては初めての快挙で、タイトルは「コシャマイン記」です。

書き出しは次の通りです。

「勇猛を以って聞えたセタナの酋長タナクシが、6つの部落を率いて蜂起した時、日本の大将カキザキ・ヨシヒロは偽りの降伏によってタナクシをその館に招き入れ、大いに酔わしめて之を殺した。」

鶴田は昭和の初めに八雲に旅行に来て、アイヌのことを調べて小説にしました。しかし「当たらずも遠からず」で鶴田の創造で書かれたものです。
セタナは現瀬棚町、タナクシはコシャマイン、カキザキ・ヨシヒロは武田信広のことです。


コシャマイン蜂起の結末 

トップの写真はコシャマインの戦いで最初に陥落した「志海苔館」入り口にあたります。

志海苔館

アイヌの人たちは、戦争というものを知らない民族でした。民族同士によるいざこざや、既得権を巡って部落同士の戦いはありましたが、特別な武器はなく戦いの戦略や戦術を知る由もありません。

自分たちが住む土地(蝦夷地)に勝手に居ついて、アイヌの弱みを突いて交易の条件を次々と悪くしてきたことに対する不満の爆発が根底にありました。
従って、津軽海峡を渡ってきた和人を懲らしめればといった気持ちがあったのでしょう。

それが、コシャマインを頭として12ある館の10カ所が壊滅してしまいました。

百戦錬磨の戦を生きてきた武士の魂に火が付きました。
上ノ国の花沢館主である蠣崎季繁(かきざきすえしげ)が、27歳の客将武田信広を大将として、ウスケシ(箱館)に向けて反撃にでたのです。
上ノ国の比石館、そうして松前、福島、木古内、上磯と陥落された館に反撃の呼びかけと武器の調達をしながら陣容を整えて進みました。

そうして、いよいよ七重浜(現北斗市)でコシャマイン軍勢と戦になります。
この戦いは、武田信広の作戦で簡単に決着がつきました。
武田信広がコシャマインをどのようにして殺害したのかは諸説あります。
というのは確かな文献が残されているわけではありません。しかし、このアイヌ民族に対する和人の決着の仕方は、今後もありますが一様に「だまし討ち」でした。アイヌの人たちは、それが騙しであることを予測できても、相手が下手にでて手を差し伸べてくると信用してしまう優しさがありました。
武田信広はこのアイヌの性質を利用します。

和睦を持ち掛け館に招き酒を飲ませて殺害したという説があります。しかし、別の説では和人軍が一斉に退却をしたと見せかけ、アイヌ軍団が勢いついてきた所を信広の一矢でコシャマインを射殺し、数名をたちどころに切り倒したとの説もあります。

和人滅亡の危機を救ったということで、武田信広の名声は高まりました。
コシャマインが敗れて和人の勝利となりましたが、以後100年間も続く戦いの戦端を切ることになります。
コシャマイン首長クラスの人物が登場するまでには時間がかかりました。

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