あなたが選んだ北海道のビューポイント

北海道人気は「雪」「温泉」「蟹」ではなくなりました。格段に外国からの観光客も増え、みな…

あなたが選んだ北海道のビューポイント

北海道人気は「雪」「温泉」「蟹」ではなくなりました。格段に外国からの観光客も増え、みなさんは独自の旅を楽しんでおります。長年やってきた「北海道ビューポイント」のWEBで人気のあるスポットを綴ってまいりたいと思います。

最近の記事

北海道人のルーツ8 開陽丸沈没

開陽丸沈没 22日、追撃する榎本軍が熊石村に到着すると、松前徳広ら男女60余名は既に本土の弘前藩へ落ちて行った後でした。 残存の藩士ら300名が榎本軍に投降。 熊石は江戸時代当初松前藩領の最北部でした。 熊石は松前藩領の最北部でした。その当時の歴史が「失われた風景」に入っていましたので、合わせて読んでください。 松前徳広らは11月24日には弘前藩領の薬王院に逃れますが喀血して倒れ、11月29日に死去。享年25歳。 明治3年(1870年)10月、長勝寺に仮葬した遺骸を

    • 蝦夷の時代16 松前藩の財政・鷹

      慶広は初めて豊臣秀吉に面会した時に「鷹」を献上し、徳川の江戸幕府に対しても毎年献上しました。 この献上鷹の松前からの道中は、各藩の大名領へ手配され大名行列のようなものもしさであったといいます。 時代劇で殿様が鷹狩りを楽しむ映像を観ますが、蝦夷の鷹は人気があり松前藩にとっては大きな財源となりました。 五代将軍綱吉時代は献上を差し控えましたが、八代吉宗の時に復活、当時は鷹狩りの隆盛期で全島に直領・家臣知行領合わせて鷹打場が390カ所あまりに達していました。 (鷹は場所で優良が

      • 北海道の山めぐり8 定山渓天狗岳

        定山渓天狗岳(じょうざんけいてんぐだけ)  定山渓に天狗山があると本で読んだことがありました。 小樽の天狗山を描いていたので興味を持ちました。北海道には天狗岳と名のつく山は12座あり、さらに天狗山を含めると倍の24座あるといいます。 たくさんあるので定山渓と冠をつけていますが、アイヌ語でキトウシヌプリで「ギョウジャニンニクの群生する山」という意味だそうです。 定山渓温泉から道道1号を通り、途中から道道95号に入りました。この道は豊羽鉱山があった道です。道路には「熊に注意

        • 観光客が行かない東川町の旅・前編

          観光客が行かない「東川町」の旅        人口8,437人 (令和2年12月31日)         大雪山国立公園(面積2,267.64k㎡)は昭和9年(1934)12月4日に指定を受けており、そのうち東川町域は約半分の面積になっています。 また、北海道の峰といわれる大雪山連峰の最高峰旭岳(2,291m)は東川町域に所在します。 日本百名山にも選ばれ緯度が高く、本州の3000m級に肩を並べる環境が登山者を魅了しています。 豊富な森林資源と優れた自然の景観は、観光

        北海道人のルーツ8 開陽丸沈没

          北海道のむかし話17  頭も名人

          頭も名人 「俺はニシンつぶしの名人だ」というふれこみで、雇われたものの、さっぱり働かない繁次郎に腹をたてた親方、このホラふきの繁次郎をぎゅうととっちめてやろうと、大樽にいっぱいニシンを入れて、繁次郎を呼び出し、 「さあ、繁次郎、おまえはニシンつぶしの名人だと自慢しているが、今日はひとつその腕前を見せてもらおう。この樽のニシンをつぶすことができたら、全部おまえにくれてやる」 困った顔をするかと思いのほか、繁次郎けろりとして、 「よし親方、ニシンをつぶせばいいんだろう。

          北海道のむかし話17  頭も名人

          北海道の岬めぐり9 宗谷岬

          宗谷岬(そうやみさき) 小樽⇒国道5号⇒国道337号⇒国道231号⇒232号⇒道道106号⇒国道238号と日本海を北上し約400キロのドライブで宗谷岬に到着です。 「そうや」の語源もアイヌ語でした。説がいろいろありますが「ソー・ヤ(so-ya)」(磯岩の岸)が一番説得力がありそうです。 日本の本土における最北端の地となりますが、政府の実効支配が及ぶ範囲は宗谷岬の沖合い1キロにある無人島弁天島ということです。 北緯45°31’22” 「日本最北端の地の碑」が建てられてお

          北海道ゆかりの人たち 伊達邦直(だてくになお)

          天保5年9月12日(1835年11月2日) – 明治24年(1891年)1月12日) 仙台藩一門・岩出山伊達家領主。 明治維新後は北海道開拓に身を投じ、現在の当別町基礎を築く。 亘理伊達家十五代で有珠郡伊達村(現・伊達市)開拓の伊達邦成(くにしげ)は実弟。 当別町は石狩管内の北にある町で、札幌から札沼線で石狩川を渡ると「石狩太美駅」「石狩当別駅」と続きます。車では国道337号で50分ほどで「石狩当別駅」に到着。伊達邦直たちが入植したのは「石狩当別」になります。 石狩

          北海道ゆかりの人たち 伊達邦直(だてくになお)

          北海道人のルーツ7 松前城-落城

          奥羽越列藩同盟に参加していた松前藩は、1868年7月末に「勤皇派」の正義隊がクーデターを起こし、藩政を掌握、維新政府側に転換させ、反対派を大量に逮捕・処刑するという混乱の中にありました。 こうした中、旧幕府軍が鷲の木に上陸し、峠下(七飯町)で箱館府兵を破り、五稜郭を占拠、同年11月1日には榎本武揚は五稜郭に入城。 松前藩はこれらの動きに備えて、現在の厚沢部町に新規に構築しつつあった館村新城(館城)に、藩主および藩の主力は移動していました。 11月1日、榎本軍の軍艦蟠竜が

          北海道人のルーツ7 松前城-落城

          蝦夷の時代15 知行主

          松前地には本州(内地)と同じように村を設け、五人組制度、村役人を通じて支配し、土地売買は禁止しました。 アイヌに対しては、和人との摩擦を避け従来通りとしましたが、これが後に和人世界との格差を生むことになります。 幕藩体制下に入った松前藩は本州他藩と異なり、藩士への禄に米を用いることができず、主だった家臣には徳川幕府に承認されたアイヌの人たちとの交易権を地域を限って分与しました。 これを商場(あきないば)あるいは場所と呼びます。知行主 (商場を給された藩士)は、年に1度みずか

          北海道の山めぐり7 ニセコアンヌプリ

          ニセコ連峰の主峰ニセコアンヌプリ(標高1,308.2m)は、アイヌ語で「絶壁にある山」を意味します。 ニセコアンベツ(絶壁に向かっている<川>)川の方向から付けられたようです。 松浦武四郎は「岩内岳」と記しています。 世界4大スキー場の一つに数えられ、西側にはイワオヌプリ、ニトヌプリ、チセヌプリなどの山々、北側にはワイスホルンがあり、尻別川を挟んで羊蹄山の向かいにあります。世界的なスキー場のある山としても有名です。 明治37年10月、山麓に沿って函館ー小樽間の鉄道が開通し

          北海道の山めぐり7 ニセコアンヌプリ

          観光客が行かない名寄市の旅ー後編

          旧風連町(写真は風連駅) 風連町は、上川支庁管内上川郡にあった町ですが、2006年(平成18年)3月27日に廃置分合され、名寄市風連町となりました。 ふうれんの地名は、アイヌ語のフーレペツ(赤い川)に由来するとされ、酸化鉄が含まれており川底などが赤く錆びてみえるという意味です。かつて風連付近には、わずかなアイヌ人が居住しており天塩・名寄川筋に漁猟をして暮らしていたといいます。 明治31年、初めて和人として移住してきたのは山梨県人渡辺元吉で同志2名と共に農業を行いました。

          観光客が行かない名寄市の旅ー後編

          北海道のむかし話16 江差の繁次郎

          江差の繁次郎 札幌方面から国道227号で江差町に入ると、海に沿って道の駅があります。 「笑え 笑へば ええごとある」   笑いの守り神に出会う道の駅です。 “江差の五月は江戸にもない”といわれたころに、実在していたと伝えられる繁次郎という男がおりました。 生まれは厚沢部村で福田といい、五尺に足りぬ小男で、頭と目玉と鼻が大きく、40過ぎまで母と二人暮らしでした。 酒よし、ボタモチ結構の大食漢、しかも女には目がない、これだけでも笑い話のタネになる資格はありました。仕事は身が

          北海道のむかし話16 江差の繁次郎

          北海道の岬めぐり8 野寒布岬

          野寒布岬(ノシャップ岬) 稚内の市街地から左に稚内公園の開基百年記念塔を見上げながら北に向かうと野寒布(ノシャップ)岬があります。この岬は、日本海(利尻水道)と宗谷湾(宗谷岬)を区切る地点となります。 岬名は根室にある日本最東端の納沙布(ノサップ)岬と同じ語源です。 宗谷岬に行くには市街地から、宗谷湾を左手に見ながら東に1時間ほど車で走り、緯度にすると5度北に位置しています。 野寒布岬(ノシャップ岬)は隣の恵山泊漁港に整備された公園で、毎年多くの観光客が訪れています。真

          北海道ゆかりの人たち第三十位 板垣武四

                  大正5年2月13日―平成5年8月12日 77歳没               上川郡和寒町出身         東京帝国大学法学部卒  戦後3代目札幌市長  生い立ち 大正5年、小さな呉服屋を営む板垣家の13人兄弟の11番目として、上川郡和寒町で生まれました。小学4年の時に、2番目の兄が病で亡くなり、その3週間後に母が他界します。 四男坊の武四の環境は一変し、父が不憫に思い再婚しますが、なつくことができず札幌にいる16歳年上の兄のもとに引き取られます。

          北海道ゆかりの人たち第三十位 板垣武四

          北海道人のルーツ6  旧幕府松前藩の動き

          写真は松前藩の家紋で丸の中にある菱型の紋で「丸に武田菱」。 福山城(松前城)を建築した第12代藩主松前崇広(たかひろ)は、藩として初めて老中に就任した人物です。 西洋通であったため、文久3年(1863年)4月23日に寺社奉行に起用されます。その後、元治元年(1864年)7月7日老中格兼陸海軍総奉行になり、同年11月10日老中に抜擢されました。(明治まで後4年) 慶応元年(1865年)5月には第二次長州征討に徳川14代家茂の供をして京都、ついで大坂に至り、9月に陸軍兼海軍総

          北海道人のルーツ6  旧幕府松前藩の動き

          蝦夷の時代14 福山館の新築

          松前慶広は慶長5年から6年をかけて、徳山館の南の台地に福山館を築き、アイヌに対しては「城」、幕府には「館」と称しました。 徳川幕府の藩とはなっても米の取れない蝦夷地で無石の来賓待遇でした。 当時「城」を無断で建てることは許されず、慶広は幕府に対しては「館」を新築したと言ったのでしょう。(現在残されている松前城は、幕末期に建てられた城です) 館の北側には、大館から移転した阿吽寺(あうん)・法源寺などが集中した寺町を設置しました。 ★旧福山館本丸表御殿玄関が、松前公園内に保存