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蝦夷の時代8 松前藩開祖誕生

武田信広(松前藩開祖)

コシャマインの戦いで、アイヌ総大将の首を討ち取った花沢館主蛎崎季繁の客将武田信広は蝦夷地における地位を決定的なものとしました。
花沢館主の蛎崎氏養女(茂別館主下国の娘)と結婚。家督を相続し蛎崎信広と名乗ります。

州崎館

また、戦乱を逃れて上ノ国に集住してきた人々を抱えて、新たに天ノ川の北側に州崎館、ついで花沢館の西側に勝山館を築きました。
勝山館(1462年築城)の跡地が残っており、国指定史跡となっています。

勝山館がある上ノ国町は渡島半島南部の日本海に面しており、車で北に10分ほど走ると江差町です。
上ノ国町は日本海に注ぐ天ノ川河口に近く、南北にのびる台地となっており標高159mの夷王山(いおうざん)があり、町内から国道228号線を南に下ると「道の駅もんじゅ」が右手に見えてきます。この手前を左折し500mほど山の中腹まで上ると後は歩いて山頂まで登ることが出来ます。
山頂には鳥居があり武田信広を祀る「夷王山神社」があり、山頂から眺めると勝山館というのは、夷王山の地形を良く利用した館であることが分かります。三段構えの要塞となっており、堅牢無比の山城です。
 
武田信広は勝山館に八幡宮を建立し、1494年に勝山館にて64歳で亡くなりました。

武田信広について


上ノ国町

武田信広は若狭(福井県)の守護武田信賢(のぶかた)の子で、粗暴なところがあったため継嗣争いに敗れ、数人の家臣を付けて家を出ました。
その後、関東を経て奥州田名部にいたって蠣崎村に住み、安東政季に従って蝦夷に渡り、上ノ国花沢館に入ります。
若狭の守護武田氏は甲斐の武田と同じですが、むしろ当時の日本海開運の拠点であった若狭の小浜方面から蝦夷に渡来した商人ともいわれています。

札幌の北海道神宮境内に「開拓神社」があります。37人の北海道開拓に貢献した人物が祀られているのですが、この筆頭が武田信広です。


12館の豪族たち

箱館の河野氏は伊予の豪族・河野氏の子孫で、加賀に居住したのち流浪して蝦夷地にはいりました。花沢館の蠣崎氏は若狭武田の同族、比石館の厚谷氏は若狭武田の重臣でした。
また、箱館に一寺を創建し、コシャマインの戦いで大舘(松前町)に移った随岸寺開祖嘉峰や、大館法源寺の開祖随芳、法幢(ほうどう)寺再興の宗源などは若狭からの移住。
加賀も同じようなもので、若狭~、12館を築いた和人は北陸方面から日本海の流れで乗り込んだ豪族たちでした。





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