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観光客が行かない鵡川巡り・続編

穂別の町は鵡川町から40分

鵡川を河口から山岳の穂別に向かって車を走らせてみました。
むかわ町といえば、「ししゃも」と「鈴木章(ノーベル化学賞)」くらいしか知りませんでしたが、鵡川の河川の大きさには驚きました。


そうして、穂別の街に近づくと原木の工場が見たこともない量で積み上げられています。穂別は、「ほべつメロン」だけではなく道内最大の森林組合がある町でした。
河川の東側を道道74号で上って行くと鵡川を渡る橋があります。
この橋を渡ると穂別の市街地で、むかわ町役場の穂別総合支所があります。恐竜公園や中村記念館などがあり74号を20分ほど走ると占冠に向かう国道274号に出ます。

むかわ町役場にも寄りましたが、やはり穂別のことは穂別役場で聞きたいと支所を訪れました。町を良く研究している地域振興の方を紹介してくれました。役所は、やはり地域を愛する人たちの組織であってほしいと思います。都会では他県から通勤して勤めに入る職員が多いといいます。
これでは、非常事態に住民の助けにはなりませんし、河川や山々などの四季を知らなくては町に対する愛情など生まれるものではないでしょう。別れる際に「訪れておいた方が良い所はないですか?」に対して「富内地区」でした。

富内線(とみうちせん)

旧富内駅

道道74号を橋まで戻り、更に鵡川に沿って10分ほど走ると廃駅「富内駅」がありました。大正12年、国鉄富内線が鵡川~富内まで開通し人口が急増します。また穂別炭鉱(現・杵臼)が昭和20年に開坑し,最盛時の昭和36年には人口1万を超えました。(昭和40年に閉山)
この鉄道は、ひだか町の「道の駅樹海ロード日高」の近くまで開通します。更に北部の占冠村を通る根室本線金山駅まで達し、道東十勝へと繋がる計画でした。

話は戻りますが、日高本線の始まりは穂別の森林です。王子製紙苫小牧工場の新設は明治43年。鵡川や沙流川の上流にある森林を伐採し河口まで運びだすことは容易なことでした。
大正2年、これが苫小牧軽便鉄道となり、その後、国鉄は買収し様似まで延ばしますが限界でした。十勝は遠く、次に考えたのが狩勝峠回りで新得に入る計画です。毎年「むかわ町穂別流送まつり」が行われています。原木を下流に送ったことをヒントに今は「人間流送競技」になっています。

「ほべつ銀河鉄道」

銀河鉄道の里

上の写真は富内駅を中心にした公園になっています。

昭和61年に国鉄富内線が廃止された際、富内地区の住民が中心となり、地域の衰退を防ぐために「銀河鉄道の里」とする取り組みがおこなわれました。駅舎や構内の保存、空へ向けたレール(銀河への橋)、「涙ぐむ目」という花壇の整備など駅周辺を富内銀河公園として整備しました。

平成13年には、愛媛県から小型蒸気機関車を借りてきて1日だけ駅構内を走らせるイベントなども実施。構内の線路とホームは文化庁による登録有形文化財に指定されています。
この背景には戦後初の民選村長となった横山正明(39歳)氏のイーハトーブ構想(宮沢賢治の理想郷)がありました。当時電気のなかった穂別村に村立発電所を設置、全国初のスクールバス運行、村立病院、村立高校の設置など村民の福祉と教育の向上をめざしました。横山正明の生涯はドラマになると思いました。
日本人の政治家も素晴らしい人はいるもので、いろいろ訪ねてみるものです。

国松登の油絵

話は鵡川町に戻ります。実は鵡川町役場も訪れていました。旧穂別町のことをいろいろ聞きたくて尋ねました。受付で聞くと二階の観光課に詳しい人がいると言います。
尋ねて話を聞くうちに気になる絵が柱に掲げてありました。
「この絵はどうしてここにあるのですか?」と聞くと「知りませんが、偽物ですから」といいます。私は「これは本物だと思いますよ。国松登の作品で80万円はするでしょう」というと、課長さんは「まさか」と言って柱から外してテーブルに置きました。私は額から外して裏を見ると「国松登」と直筆で書いてありました。周りの職員は騒然としました。
その後、あの絵はどうなったのか確認はしていませんが。





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