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チンゲン革命(3)

前回までのあらすじ
日蓮正宗創価学会を信仰する家庭に育った若本は、宗教的潔癖を守り、嘘も悪口も言わない少年だった。ある日、彼にとんでもない衝撃が走る…!

このあらすじの通り、今回のお話では若本少年にとんでもない衝撃が走る予定だった。
前回、私は読者の皆に約束したのだ。「次回は若本に衝撃が走るぞ」と。
何せ私が自分で書いた文章なのだから、ハッキリ覚えている。確かに私は皆に約束した。
しかし、しかしだ。
約束というのは破るためにあるのだ。
法華経が権門の理を破るように、私も読者との約束を破ろう。堂々と。

それでも読んでくれるというのだから、私は貴方に感謝せねばならない。
万感の思いを胸に、私は全力でこのしょうもない小説を書き切ってみせよう。
時折、脱線したり約束を破ったりはあるかも知れない。
しかし、書き切るという約束は破らない。死なない限り。

さて、予定を変更したのには理由がある。
ここまで書いてきた「日蓮正宗創価学会」について、当時の状況を書いておくべきと判断したからだ。
また、創価学会ではなく敢えて「日蓮正宗創価学会」と表記するのも理由があってのことであり、それを知っておく意味があると思ったからだ。

当時の創価学会というのは、あくまでも「日蓮正宗の講組織(勉強会)の中の一つ」という位置付けだった。
他の講組織と違うのは、宗教法人格を有していたことと規模が極端に大きいことだろう。
古い時代からの講組織もあった中で、創価学会は講として新参者だった。そのせいか、他の講と創価学会はあまり仲が良くなかった印象がある。
それを感じたのは、御開扉(ごかいひ)というイベントでのことだ。

日蓮正宗と言えば御開扉。御開扉と言えば日蓮正宗である。
これは、全国から集まった信者が本尊を拝み、勤行唱題をする儀式である。

この「本尊」というのが他宗の人にはちょっと分かりにくいはずだ。
日蓮門下にとっての本尊は、信仰対象という話に留まらない。
門下界隈で大問題になる、極めてデリケートなテーマなのだ。
どのくらいデリケートかというと、日蓮の滅後から700年以上経っても門下同士で喧嘩しているくらいにはデリケートかつフレッシュな問題だ。
ここで触れぬわけにはいかないのだ。

「若本よ、すでに脱線しているのに、さらに話を脱線させるつもりなのか!」というクレームが聞こえてきそうだ。
大丈夫だ。いずれちゃんと戻ってくるから安心してくれ。いずれ、な。

一般に、本尊と言えば仏像や仏画を指すことが多いのだが、日蓮正宗はそうではない。
文字曼荼羅と呼ばれる、独特の筆法で書かれた護符や呪符のようなものを本尊としているのだが、この時点で日蓮門下は喧嘩ができるのだ。どうかしてるぜ。

まず、前述の表現を読んで「大切な御本尊様を護符や呪符と一緒にするなんて、とんでもない不敬だ!」と怒る人がいるのだ。

令和の時代に不敬と来たもんだ。戦前の日本かと。
とは言え、信者にとっては命のように、あるいは命以上に大切な本尊である。
そんじょそこらの札と一緒にされては、不敬と感じるのも致し方ない。

その気持ちは分かるけど、許してほしい。
良い表現が他に見当たらないのだ。
普通は、あの文字曼荼羅を見たら護符や呪符の類だと思うはずだ。
というか、そもそも日蓮がこう言っているのだ。

おさなき人の御ために御まほ(守)りさづけまいらせ候。この御まほりは法華経のうちのかんじん(肝心)、一切経のげんもく(眼目)にて候。たとへば天には日月、地には大王、人には心、たからの中には如意宝珠のたま、いえ(家)にははしら(桂)のやうなる事にて候。このまんだら(曼荼羅)を身にたもちぬれば、王を武士のまほるがごとく、子ををやのあい(愛)するがごとく、いを(魚)の水をたのむがごとく、草木のあめ(雨)をねがう(楽)がごとく、とりの木をたのむ(恃)がごとく、一切の仏神等のあつまりまほり(守)、昼夜にかげのごとくまほらせ給ふ法にて候。よくよく御信用あるべし。

現代語訳:
貴方のお子さんのために、御守りをお授け致します。この御守りは法華経の中の肝心であり、一切経の眼目であります。例えば、天における日月、地における大王、人における心、宝の中では如意宝珠、家における柱のようなものなのです。この曼荼羅を身に持ったならば、王を武士が護衛するように、子を親が愛するように、魚が水を頼りにするように、草木が雨を有り難がるように、鳥が(休息のために)木の枝を頼るように、一切の仏や神々が集まって守ってくれて、昼に夜に影のように守ってくださる仕組みになっているのです。しっかりと信用なさってください。

妙心尼御前御返事/ 建治元(1275)年8月25日

あーでも、これは真筆が残ってないんだっけか。
どれどれ…日興写本はあって、大石寺蔵らしい…と。
あ、それなら使ってもOKな遺文だな。

分かるかい?
日蓮門下独特の、このクソ面倒くさい感じ!

私はさ、御開扉というイベントを説明したいだけなのよ。
本尊を拝むイベントだよと。
それはまあ良いよ。

で、拝む対象の本尊が何なのかを説明しようとするよね。
サクッと軽くで良いから説明したいのよ。
ところが、本尊の定義で門下が分裂しまくってるから、気軽に説明なんてできないわけだ。

そこで、せめて見た目だけでも説明しようと思って「本尊は護符に似ている」と書くと、護符というキーワードに反応して怒り狂う人が出てくる。

彼等をなだめるために、日蓮遺文を使おうとするよね。「日蓮の言葉なら文句ないだろうし落ち着いてくれるだろう」と。
そしたら今度は「その遺文は日蓮の真筆が残っているのか?」という議論になるのよ。
あるいは、残っていないならば「どの時代の誰による写本が残っているのか?」と。

で、先に挙げた遺文については、「真筆は残っていないけれど、大石寺の第2祖である日興が書写した文書が、日蓮正宗総本山の大石寺に残っている。」というものだったのね。
だから私は「日蓮正宗の人は怒らずに受け入れてくれるよな」と判断したわけだ。

そんなことをチマチマと気にせねばならないのよ。
いや、日蓮正宗にも話の分かる人はいるのだけどね。
何だか思考が偏りまくっておかしなことになっている正宗メンバーも多いのよ。

だから、こちらとしては遺文一つ取り上げるだけでも、物凄く気を遣うことになるというわけだ。
「本題に入る前に今世が終わっちまうぞ」なんて思ってしまう。

話を戻すが、護符という表現に文句を言いたい気持ちは分かった。それなら皆に伝わる良い表現を教えてくれや。
文句だけ言って対案を出さないなんて、勘弁してよ。

とりあえず、文字曼荼羅を見たことがない人は、文字で書かれた護符みたいなものをイメージしてくれれば良い。今はその中身まで掘り下げないからだ。

で、文字曼荼羅を本尊とするのが日蓮正宗なのだが、ここでも喧嘩が発生する。
テーマは「仏像も本尊だ VS 文字曼荼羅のみが本尊だ」である。

物凄く簡単に言うと、
「どっちも本尊でしょ」というのが日蓮宗であり、「いや、文字曼荼羅のみが本尊だ」が日蓮正宗である。

日蓮による曼荼羅は100本以上残っているのだが、その中でも弘安2年10月12日に書かれた文字曼荼羅を「戒壇の大御本尊」と呼んで唯一根本の本尊という扱いをするのが日蓮正宗である。

それでだ。恐ろしいことに、これもまた喧嘩の種になるのだ。

日蓮正宗は「戒壇の大御本尊を護持し続けている自宗派のみが、日蓮門下としての唯一正統な宗派なのだ」と主張するのだが、他派がそんな言い分を許すはずはない。
「そんな本尊を日蓮が作るわけないだろ、戒壇の大御本尊なんて偽物だ。勝手なことを言うな。」と。

もう、いい加減にしてくれ。
さっきから日蓮門下の小競り合いの話ばかりで、全く先に進めないじゃないか。

ま、書かなくて良い小競り合いをわざわざ書いてるのは他でもない私だけどな!

おっと時間だ。次回につづく!



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