見出し画像

チンゲン革命(4)

前回までのあらすじ
「戒壇之大御本尊を護持する我らこそが唯一正統だ」とする日蓮正宗。「そんな本尊は偽物だ」と真っ向から反対する他の日蓮教団。戒壇本尊以外にも様々な理由で対立するので、日蓮門下を語るのは面倒くさいぜ。

そんな戒壇本尊を日蓮正宗では「一閻浮提総与の御本尊」や「本門戒壇の大御本尊」と呼称している。
普通にネーミングが長いし、日蓮門下において戒壇を名乗る本尊が他にないため、ここでは戒壇本尊と呼称するが、許されたい。

日蓮正宗において戒壇本尊というのは、日蓮が書いた他の曼荼羅とは全く別格の扱いをされている。
「日蓮大聖人御真筆の曼荼羅であっても、日蓮正宗に格護されたものでなければ功徳が出ない」といった説明をする。

そりゃ、他門も怒るわな。自分のところにある曼荼羅が、それも日蓮直筆のものがディスられているのだから。
「大聖人の真筆曼荼羅をそこまで貶めるならば、戒壇本尊が本物である証拠を出せ」となるのも当然かと。

しかし、他門が何を言おうとも、日蓮正宗からすれば戒壇本尊のみが絶対の信仰対象なのだ。
一般に、日蓮による曼荼羅というのは紙に筆で書かれたものなのだが、この戒壇本尊は全く違う。
黒塗りの木に文字を彫り込み、そこに金箔を流し込んだものである。
これを代々の法主が書写したもの(またはそのコピー)が、信徒の家に安置されることになる。

「お山(=大石寺)にある御本尊様は本店だよ。家に安置した紙の御本尊様は支店だよ。だから、家の御本尊様に祈ると、お山の御本尊様に通じるんだよ。」
このような教育を受けて、私は育った。

これは同時に、「本店に連なっていないのだから、他宗の曼荼羅はいかに真筆と言えども功徳が出ないのだよ」ということも意味する。この「功徳が出ない」という表現は何なのだ。功徳を排泄物みたいに言うなよ。本尊が便秘してるみたいなこと言うなよ。

【日蓮正宗にしかない、最上最尊・絶対の戒壇本尊に有り難くもお目通りできるイベント】
それが御開扉なのである。
戒壇本尊を格護するのは、「正本堂」と呼ばれる巨大な宗教建築物だった。

この正本堂、屋根がナイトガンダムのヘルメットにそっくりだと私は思うのだが、そもそもナイトガンダム自体があまり有名ではないので伝わらないだろう。

私はとても優しいので、ここで画像を比較してあげよう。

ナイトガンダム ※プライバシー保護のため、画像を一部加工してあります。
正本堂 ※プライバシー保護のため、画像を一部加工してあります。

ね?似てるでしょ?似てるから何だと言われると困るけど、似てるのよ。

話を元に戻そう。
この正本堂という建築物は、創価学会員にとって非常に大きな意味を持っていた。
大きいのは意味だけではない。
物理的にもかなり大きいし、当然、建築にはかなりのお金が動いた。

建設のための寄付を募ったのは1965年。当時の金額で355億円である。
日銀とかいう国家権力によると、令和5年時点における消費者物価指数は当時の4.46倍らしい。
現在の貨幣価値に換算すれば、実に1500億円を超える金額である。

参考:国家権力のサイト(https://www.boj.or.jp/about/education/oshiete/history/j12.htm)

現在の1500億円が何に相当するのかを調べたところ、2027に完成予定の超高層ビル「トーチタワー」の総工費に匹敵するらしい。高さ390mで麻布台ヒルズを越えて日本一になるんだってさ。楽しみだね!

いや、良いんだよトーチタワーの説明は。
そうではなくて、トーチタワーを作れるほどの大金を、創価学会が主体となって集めたと。
しかも、そんな大金をどれだけの期間で集めたのか?

何と何と、4日間で集めたらしい。
それを知って私は失禁しかけたね。
もちろん事前予告があってのことだが、短期間で巨額の資金を集めたことは間違いない。

大手ゼネコンの一大プロジェクト級の資金が、そう簡単に集まるものではない。
その裏には、会員各家庭の涙ぐましい、あるいは悲惨とも言えるような努力があったのだ。

私が親から聞いた『美談』は、「貧乏な過程なので、お惣菜のコロッケを家族4人で分け合うなどして節約した。そうして浮かせたお金を供養した」というものだ。

「貧乏なのにお惣菜を買うお金はあったのか?」という問いはあったのだが、そこはご愛敬というものだ。

このコロッケストーリーの真偽は確かめようもないことなのだが、これが美談として語られるところが重要だ。
「金がある者は大金を出せ。ない者は食を削ってでも金を捻りだせ。」という空気があったことを示すからである。
もちろん、そこには「一世一代の供養のチャンス、これを逃す手はないぞ」といった、無茶をさせるためのトリック的な指導があったことも容易に想像できる。
というか、一世一代どころか、三世一代ということだろう。過去にも未来にもこんなチャンスはない、今しかないのだ!金を出せ!と。

正本堂建立にまつわる話題については、これ以上は掘り下げない。
どうしても、推測でしか書けない部分が多くなるからだ。
(しかし、実体験を持つ方による話は、機会があればぜひ聞いてみて欲しい。私などは、こうして創価学会や日蓮正宗を一種のネタとして描いてしまうのだが、そんなことができないくらいに辛い思いをした人たちがいる。そのことを無視して良いとは思わない。)

ここでは、「創価学会員にとって、正本堂は赤誠の証であり、ある種の誇りでもあった」という点を共有したい。

創価学会はこの正本堂について宗教上の特別な意義を持たせようとしたのだが、それに反発した講組織もあった。現在の顕正会である。
それにしても、最近は顕正会の新聞を配る人の数が凄いね。駅前とか。暇な時は私の方から新聞を貰いに行って、創価学会員だぞと宣言するようにしている。「創価学会はニセ本尊だからやめた方が良いですよ!」と言われるので「お互いにニセ本尊だね!頑張ろうね!」と答えるようにしている。ニセ本尊ってワード、日蓮正宗発信じゃないの?よく知らんけど、顕正会でも流通しているワードみたいだよ。

このように、講組織によって正本堂の位置づけには微妙な差異があったものの、戒壇本尊にお目通りすることの重要性はどこも同じであり、「お山に行く(=総本山大石寺の正本堂に行き、御開扉に参加する)」ということが、一種の宗教的な目的になっているわけだ。

当然、私も子どもながら非常に重要な行事であることを理解していた。

その御開扉の際の記憶を伝えたいのだが…あらあら、お時間が!
今回は、画像や資料も豊富で楽しかったのではないでしょうか!知らんけど!

次回に続く!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?