185.何故おつとめを21回するの?


はじめに


前回の記事で、「おつとめが21回なのはどのようにきまったの?」という記事を書かせていただきました。

前回の記事はこちら

「おつとめがなぜ21回なのか?」に対する答えは、座談会の内容から取り上げましたが、これだけで21回に込められた意味を理解したとするのは軽率すぎると思いました。

そこで、甘露台座談会#2を書く前に、3、7、21と言った数字に込められた意味について、他のみかぐら歌解釈本ではどのように解釈されているのかを調べて見たいと思います。


3、7、21という数字について


天理教教祖伝逸話篇60 金平糖の御供より一部抜粋
「一ぷくは、一寸の理。中に三粒あるのは、一寸身に付く理。二ふくは、六くに守る理。三ふくは、身に付いて苦がなくなる理。五ふくは、理を吹く理。三、五、十五となるから、十分理を吹く理。七ふくは、何んにも言うことない理三、七、二十一となるから、たっぷり治まる理。九ふくは、苦がなくなる理。三、九、二十七となるから、たっぷり何んにも言うことない理。」
天理教教祖伝逸話篇173 皆、良い日やで
教祖は、高井直吉に、
「不足に思う日はない。皆、吉い日やで。世界では、縁談や棟上げなどには日を選ぶが、皆の心の勇む日が、一番吉い日やで。」
と、教えられた。
 一日 はじまる 二日 たっぷり 三日 身につく 四日 仕合わせようなる 五日 りをふく 六日 六だいおさまる 七日 何んにも言うことない 八日 八方ひろがる 九日 苦がなくなる 十日 十ぶん
 十一日 十ぶんはじまる 十二日 十ぶんたっぷり 十三日 十ぶん身につく(以下同)
 二十日 十ぶんたっぷりたっぷり 二十一日 十ぶんたっぷりはじまる(以下同)
 三十日 十ぶんたっぷりたっぷりたっぷり
 三十日は一月、十二カ月は一年、一年中一日も悪い日はない。
教祖より聞きし話・高井猶吉※1
二十一日は、また十分たっぷりはじまる、朝夕のおつとめの理。二十一ぺんするのは、十分たっぷり始まるという理をもって二十一ぺんおつとめするのである。決して数を取り間違ってはならん。
おかぐらの理 堀越儀郎※1
三七の理「あしき払ふて助け給え」の勤めは二十一遍繰り返すのでありますが、あれは二十一遍繰り返すのではなく七遍づつ三回繰り返すのであります。本部では甘露台の本勤には「あしきを払ふて助けせきこむ」の勤めも七遍ずつ三回即ち二十一遍繰り返されるのであります。これは「三七の理」であります。此の「三七の理」に就いては色々の解釈を聴かして頂いておりますが、どれもみなよくその意味をさとることが出来るように思いますで次に色々の解釈を列挙して見ましょう。

一、三七の理即ち二十一遍の理は十、十、たっぷり初まる(一)の理であります。

二、
三は大食天尊、大戸辺尊、国狭土尊の三柱の神様の理、即ち「産」の理でありまして人間は生まれることを意味します。或は三柱目の神様の御守護をあらわす。即ち「つなぎ」の理でありまして矢張り生を意味するのであります。七は七柱目の神様の理、即ち息の根を切る理でありまして死を意味するのであります。そこで三七の理とは生まれるより死ぬ迄の理、即ち一生涯の勤め全生涯を通じての永い絶えざる努力をあらわすものであります。

三、
三七の理は三かける七、即ち「生」かける「死」の理で真剣命懸けのつとめの意であります。世間でも水業や苦業をして願をかける人は二十一日の日を切って願をかけるのであります。あれは真剣の意えおあらわしているのであります。

四、
三七は「つなぐ」「切る」の理でありますから誠のみちにつないでもらって埃や悪因縁を切ってもらう理ともきかしてもらひます。

五、
全ての者には表裏があるが双六の「さい」には東西南北上下があって表裏がない。東と西、南と北、上と下とを合わせば七となる。即ち一と六、五と二、三と四となって居て何も三七の理で裏表の無い理であります。また「さい」は昔から魔除に用いられたが即ち「さい」の理をあらわす三七の理の勤めは悪しきを払ふの理であります。

 上述の様に色々と解釈がありますが、之はこういう風に沢山な説があるというよりも、こういう様に深い色々の理が含まれていると考た方が良いように思われます
御神楽歌解釈 安江明編※1
二十一遍唱える理は、人間には二十一の悪しき節がある故に、この二十一の節を取るために、悪しきを払うてを二十一遍唱えるというなり
御神楽歌二就テ 柳井教正※1
これを二十一遍唱える理は一つ悪しきの為に二十一ぺんの悪しきの事に就きあやまりて通る。世界でも七度調べて人を疑へと伝えております。それを三度繰り返せば二十一度になります
みかぐら歌語り艸 桝井孝四郎※1
二十一ぺんのわけであるが、いろいろに悟られています。十十たっぷり初まるとか、二十一ぺんは七、三の理である、七は七柱目の神様、七柱目の神様は「たいしょくてんのみこと」であって、切る理である。三は三柱目の神様である「くにさづちのみこと」であって、つなぐ理である。あしきを払うであるから、切って「七柱目たいしょく天」もらって、たすけたまへであるから、つないで(三柱目くにさづち)もらうの理である。三七、二十一ぺんである。
 三日三夜に宿しこみ、三年三月とどまって、奈良初瀬七里の間を七日かかって産みおろされた。この三日三夜、三年三月、七里、七日の七、三の理であるとも言われております。また身の内には、すなわち人間の心には二十一のあしきがある、それを払っていただくための二十一ぺんであるともいわれている。こうした理もあるであろうが、まだ、もっと、ほかに理があるかもしれない。親神様のお心、思惑は大きく計られないように

「※1」としているものは、全て「みかぐらうたの世界をたずねて 天理教道友者編」に載ってたものです。

みかぐらうた講話 安藤正吉
具体的に申せば、ほしい、をしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん。これを細別すれば二十一のほこりというのもがある。この二十一の法則に触れたもの、あるいは人間心の通るべき程度を越したものの心遣いがあしきほこりとなるのである。
(中略)
そこで朝夕のおつとめには二十一の「あしきはらい」を申し上げるのである。
みかぐらうた入門 小野清一
このつとめは二十一遍勤めされます。それは十、十、で十二分、つまりたっぷりの意で、一は始まる意ですから、たっぷり始まる理であると聞かしていただきます。
中田儀三郎先生口述 「御神楽歌の真義」
二十一回する理は人間には二十一の悪い節があるので、この二十一の節を取るために、あしきはらいを二十一回唱えるという理である。


大別すると解釈は2種類


これらを読んでみると、どうやら「二十一回」の解釈は大きく分けて2つになりそうです。

1、じゅうぶんたっぷり始まる
2、二十一の悪しきを払う

また、「三七の理」は解釈は大きく分けて3つになりそうです。

1、三つ身に付く、七つ何んにも言うことない
2、三はくにさづちのみこと、七はたいしょくてんのみこと
3、三日三夜、三年三月、七里、七日の七、三の理

どれが正しいのかという問題ですが、ここでは堀越氏が

「之はこういう風に沢山な説があるというよりも、こういう様に深い色々の理が含まれていると考た方が良いように思われます」

この様に言われているように、解釈は1つではなく
「深い色々の理が含まれている」
と考える方が良いように思います。


数字に関して思ったこと


教祖は「天理教教祖伝逸話篇173 皆、良い日やで」で、全てが良い日であるとして、各日にちの意味を説明されています。

高井氏が教祖から伺った内容を見ると、これは日にちに限ったことではなく、
「全てが良い数字である」

「教祖から直接教えて頂いたこと」
と考えることができそうです。

一方、その他の解釈は、どちらかというと人間の頭で教えと数字をリンクさせる。
つまり、人間自らが悟るという側面が強いように思います。

そのように考えると、考え方に優先順位を付けるのであれば、数字に関して考える際は、「天理教教祖伝逸話篇173 皆、良い日やで」をまず参考にして考えるべきではないかと思いました。

引用でかなりの文字数になってしまったので、この辺りで終わりたいと思います。


おまけタイム


どーも!人生史上一番肌が乾燥している男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

まじで肌がパリパリで痛いし痒いです。

信仰者として、この身上をどう悟かが大切になってきますが、ここはおまけですので、そんな小難しいことは考えず、肌の乾燥はただただ辛いけど、最近うちの子の肌が綺麗になってきたことを喜びたいと思います。

わーいわーい!

やっぱり子供が辛そうにするのが一番キツイですね。

それを思えば、僕だけが辛いことは全然ありがたいことですね。

良かった良かった。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!





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