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未来の事も自分の事も自分以外の事も誰も知らない、だからこそ


急に書きたくなったので載せる。

Threadsの文章もそのまま貼り付けます。

「君島さん関連の投稿をいいねされる機会が増えたが、つまりは君島さんの知名度が以前より明らかに増してきたということだろうが私というフィルターを通した上での君島さんのことしか書いていないので何時だって君島さんにとっては「それは俺じゃない」なのかもしれないのだけれど、でも各々で君島大空さんという人間の存在そのものを大切にしたら良いのだと思います人間はそんなもので 本人になれない上に本人ですら知らない自分がいる というのが人間だから 面白く勘が比較的良い私にとっても予想がしづらく、予想を上回る生き方をしている稀有な存在が君島さんというだけ。私は私自身が君島さんという存在に狂わされている自分も予想を上回っていて驚き、知らない自分を彼に贈られている そんな気持ちなので 私のような君島君島言いまくっている稀有なファンがいてもまあ面白いんじゃないの?でも困らせていたらごめんね、でも夢中になれている時にそんな自分もいたのだと死ぬ時に思い出すくらい覚えておきたい というだけです。」


「私は彼を知ってから私はこんな風に他人に驚かされ惹かれ時に君島周辺のいちゃついている友達にジェラシーソウル機能を発動させるようになり缶バッジとタクシーの為に名古屋に行き「あ、人ってここまで他人に執着するんだ?この感情達全部知らなかったものだ!知れたの人間として楽しいな」なのねだから子供時代の君島大空が散々でその時代の怨念は今の彼が復讐劇として続けていてその劇は決して楽なものではないのだろうがその劇が進む程舞台上での彼はどんどん煌めきを増すのでその劇を今観れている観客の一人でよかった。もう彼の復讐劇は彼だけのものでなく確実に誰かの為のものでもある」


散々書き残しているが私は本当にもうほぼ生まれて数年で人間を信じられないという感情を抱え生き続けてしまったので基本的に他人に執着がなく何時でも出会えば終わることを見つめてきた。全て必ず終わるということでしか自分も他人も見ていなかったので、基本的に人生において期待をしていないしずっと絶望している。

で、彼(とあえて書きます)を知って、何が変わったのかというと、知れば知るほど、それは断片的であったとしても凄く自分と近い感覚で生きている人間なのでは、という何処か自分ではないけれど自分みたいな人間が生きて自分だけが大切にしていた世界から徐々に外側に向かって駆けていくような様を見せつけられというよりは「叩きつけられている」という感覚で、諦めながら悲しみながらも必死で「私は此処にいる」ということを叫びたい、という感。別の人間なので全く同じ人生なんて歩んでいないが、共通しているものが「東京の郊外で育ち見てきた景色や音」「人間の残酷さを勝手に他人から投げつけられてきた」等、確実にいくつかあって、見ているものや求めているもの諦めてきたもの捨ててきたものが実はかなり似ていて、だから曲を聴けば自分の見てきた世界や音や悲しみが舞い散っていくことに安心感を与えられているような、逆に見たくない世界を投げつけられてちゃんと見ろと示されているようなそんな感覚でライブも観ているかもしれない。

最近は彼自身がライブで歌う時に凄く観ている人と目が合うようにあえてしているようにも見えて私はそれは自分の存在を他人に刻むような真っ直ぐな視線を向けるように変わってきた彼をとても好ましく思える。
何故か最近は「良かったね、やっとそんな風になれて」と勝手ながら思っては一人夜空を見上げながら緩やかな笑みが自分自身から自然と込み上げてくるのを感じながらライブ会場を去る。

彼も私もずっと悲しく寂しいままだろう。そしていつかは消えていくが確実に何処かにその悲しみも寂しさも誰かの内側に刻んで、刻み込んで、消えていくのだろう。

だから私は彼の「ファン」であり、彼にとって私は「ファン」であるが
私が彼のファンでいるということは、憧れでもなく救いでもなく
新たな自分や他人を知るという、ある種の「実験」のようなものだと思っている。
変わりゆく彼変わらない彼を観続けたら私自身がどのように変化をしていき何を変化させないと決めて生きていくのか、
私自身に対する「実験」であり結果として凄く小さくても「希望」を見つけ出すのかもしれないし
そうではなく「絶望」のまま息をし続けるのかもしれないが

この一度だけの人生で、他人を観続けて自分がどんな風になっていくのかを
知りようがないからこそ

私は試しているのだ。
その自分を選んだからこそ、私は今まだ

生きている。

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