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全てを味方に変える方法

学生時代、ほんの数ヶ月だけ合気道部に所属していたことがある。
合気道とは、攻撃してくる相手の気を利用して、攻撃し返すという護身術で、有名どころでは、あだち充さんのマンガ『タッチ』の登場人物である新田由加にったゆかがその達人だそうだが、未だにどんなものかさっぱりわからない。
そんな私が、合気道部に入った理由は、スポーツをやっていれば内申点がよくなるとか、ドラマで観るような合気道刑事デカの存在に憧れていたからじゃないかと思う。

所属してしばらくの間は、攻撃された時の倒れ方、つまり、受け身の練習だった。
器用貧乏で、反復練習が好きな私は、ずっと前に後ろに受け身をし、スパーン、スパーンと軽快な音を立てながら転げ回っていた。

そんな修行もやがて明け、小柄で可愛らしい先輩から「型を教えてあげる」と言われるようになった。
まず先輩が技をかけ、それを私が受けることになり、促されるまま『さあ、パシーッと飛ばしてちょうだい』と、腕を彼女に差しだしたが、全く技がかからない。先輩の攻めがしばらく続き、微動だにしない私にやがてイライラと殺気が募った彼女は、「寝てくれる!?」と言い放った。
一瞬、ポカーンとしたが、彼女の言葉を理解した私は、いそいそと床に倒れた。そこをすかさず、彼女に腕を締め上げられ、痛くもかゆくも何ともないのに、私はギブアップと、床をパンパンと叩いた。
間もなく、先輩と気が合うどころではなくなった、ヘタレな私は、合気道をこれっぽっちも極めることなく部活を辞めた。

そもそも、合気道とは、よっぽどな達人ではない限り、お気楽に立っている相手に技がかかるものではないようだ。
相手が自分に向ける、攻撃的な気や力等が強ければ強いほど、見事にかかるもので、性別、年齢、体力関係なく、誰もが身に付けられる武術という。

退部する前に、先輩たちが出場するからと、一回だけ合気道の演武大会を観に行った。
合気道は勝ち負けを決めるものではないため、演じるという形で、様々な段位の人を集めた大会が開催される。
その中でも感動したのが、達人の演武で、それを観て、合気道とは、相手といかに呼吸を合わせられるかということが、技を美しくみせる鍵なんだ、ということを学んだ。
そして、気イコール呼吸であることを、その日初めて知った。

医学博士の千島喜久男氏は、気の語源は、『米を炊く時に立ちのぼる湯気を現している』という。ということは、『気』の表記は、本来は『氣』が正しいということなのだろう。
千島博士は、気とは、『自然現象(気候、熱気など)』、『大気中から生命を再び体内へ取り込む呼吸』、『精神、心の状態(元気、正気など)』、『宇宙に遍在する物質や根元的要素』のこと、と定義している。

さらに、千島博士は、『病は気から』というように多くの病気が気(精神)から来るものであることを示唆しており、病気を予防するには、『怒り、恐怖、悩みなど心の不安定をさけ、自立神経の調和を乱さない』、『気を若く、希望に生きる』、『楽天的。日々感謝の生活を送る』としている。
ただ、千島博士は、いわゆるお人好しだと、現代では『営利第一主義の宣伝に乗って不自然な食物や医薬、医療のためにかえって健康を害し、寿命を縮めている人すらある』ことを指摘していて、『正しい生命の知恵を身につける』必要があるという。
ここでいう『正しい生命の知恵』とは、『ただものごとを知るための知識』ではなく『ものごとの正邪、当否、真偽を見分ける判断力』、すなわち『知恵』がなければ健康を自衛できないとしている。

めったにディズニー映画を観ないが、最近観たものは、思いの外よかった。
それは、実写版の『ムーラン』と、『クルエラ』である。

一本目の『ムーラン』は、身体の弱い父親の身代わりとなり、男性であると偽って戦場で闘った古代中国の伝説の女性を描いたものである。

ムーラン(リウ・イーフェイ)は、生まれつき、気の使い手の素質があったが、女性は家系に繁栄をもたらしてくれる男性と結ばれることが全てである時代であったため、気の存在を隠し、女性らしくあろうとする。
ところが、真実の自分を追い求める過程や、戦の最中さなかで、鎧を脱ぎ捨て、男性を演じていた偽りの自分を自ら葬り去る。
そうして、女性であることをさらけ出して、敵や自然の気を察知し、それを巧みに利用しながら、能力を開花させてゆく姿は圧巻だ。

二本目の『クルエラ』は、パンクムーブメントの嵐が吹き荒れる、1970年代のイギリスを舞台に、たったひとりの肉親であった母を失った少女エステラが、『101匹わんちゃん』に登場する、『ディズニー史上最も悪名の高い』クルエラに変貌するまでの話である。

髪のカラーが生まれつき奇抜なエステラ(エマ・ストーン)は、それを隠し、地味な女性を演じながら努力を続け、ファッションデザイナーになる。
ところが、デザイナーとして上ってゆくその道程で、母の死の理由を知ってしまい、その全貌を暴き、復讐を果たすため、闘うことを決意する。注意すべき点は、クルエラ(エステラ)自身は動物好きで優しく、宣伝文句どおりの悪ではないことだ。
エステラはクルエラへと変貌を遂げ、自分を隠すことを辞め、生まれ持った長所も短所も全て最大の武器となるよう、ファッションに取り込んでゆくようになる。
クルエラが登場するシーンでは、衣装のすごさはもちろん、その場の空気の流れを彼女の有利になるよう変えてしまう、圧倒的な魅力が溢れていて、面白い。

そうして、私自身のことを振り返ってみると、現代社会の思考や雰囲気に染まっていて、真偽も、善悪も、自分の長所・短所ですらも、世間的にみて、もしくは自分にとってどうか、という判断基準で決めつけてしまっていることが多々あることに気づくこととなった。
『いい人』というのも、ただ自分にとって都合のいい人、としてみている場合も多々あったのではないだろうか。

大前提として、千島博士のいう『生命の知恵』を持っていることと、自分が持っている全てのものを努力して伸ばすこと等が必須だと思うが、他者からの様々な感情、大気中に存在するあらゆる気、それらをみな利用して味方に変え、自分自身へのいい流れへと創り替えてしまう、そんなことを楽しみながら生きていけたら、きっと人生は最高になるし、そんな時代が到来している、そんな気がした。

(完)


本記事は、いっきさんとお話している中で、着想を得ました。いっきさんありがとうございます。
なお、記事を書くにあたって参考にした文献等は、以下のとおりです。


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