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教えをそのまま受けとる是非について 

おはようございます、こんにちは、こんばんは、多田です。

世の中には「守・破・離」という教えがありますよね。私たちは何かを学ぼうとするとき、学ぶものの右も左も分からないとき、どうしたら良いのでしょうか?
あなたは上の人間の教えをそのまま受け入れられる方ですか、心の中で反論してしまう方ですか?私はどちらかというと後者です。

私は無批判に受け入れるべきという主張にかなり悩まされてきました。
アドバイスを100%受け入れてないから、大きな成長を出来ていない
という論調が繰り返されたら、ぐうの音も出ないからです。

無批判に取り入れることで、自分の周りにない異質なものを獲得できる反面、それが自分にそぐわないものだったとすると習熟の速度と練度の低下を招くのでないか。そんな考えが頭を堂々巡りしていました。

私は沢山の意見を集め、自分で考え一定の見解を得たのでここに共有します、散らかりつくしてますが皆さんの考えの発露になればうれしいです。

求めているのは脱皮か転生か?


まずは今の自分を肯定しているでしょうか?
今の自分の全てを肯定できないのならば何かに生まれ変わるために無批判に受け入れるべきだと考えます。それはすなわち「転生」です。
それとも、今の自分が大切にしているものを保ったまま成長したいでしょうか?そうであれば、自分より少し外の意見を拾って、自分を拡張するべきです。それはすなわち「脱皮」です。

転生して一発逆転したいという人生であるならばそうかもしれませんが、正直、僕は違いました。僕は僕のままで高みに上りたい。
だから必要なのは適切な批評と方向設定、そしてその方向を前として進む地道な努力だと思いました。

高速道路を使ったら、長閑で綺麗な風景は決して見えない


何かの真似をして不自然な成長をしたとしても、必ずどこかでひずみが出ます。
まるで学習装置で育て上げた努力値のないポケモンみたいな。
バグを使ってマサラタウンの草むらでレベル100にしたポケモンみたいな。
レベルが上がるのは早いけれども、適切な時期に得られる大事な努力値という貯金を置いてけぼりにしているような気がしてならないんです。
ポケモンではLv100になった後に、草むらのコラッタを倒せば努力値は取り返せるけど、現実ではそうはいきません。

それでも早く着きたい目的地があるならば、ひずみを受け入れて進むべきだと思います。
そうでないならば、やはり適切な時期に適切な経験をして適切な飛躍をするべきだと感じます。

結局は何の目的のために誰を師と仰ぐか


大谷翔平を師と仰いでも、東大には受かりません。
スティーブ・ジョブズを師と仰いでも、異性にモテはしません。
共通するマインドはあるからそれを持とうと言われても、それは冒頭で言った批評的な受け入れであって、全てを受け入れてはいません。

自分が何のために成長、飛躍したいか。そのために誰をモデルとして自分の血肉に受け入れるか。
そこを考え抜いて、理想に近いような師が見つかったのなら師の教えを1から100まで守ることは、有用な可能性が大いにあると思います。

ただ受け入れたとしてもアドバイスからの早期脱却、自己流に再解釈、構成してアレンジするかを検討するべきだとは思いますが。



以上3つが「人のアドバイスを聞いて、取り入れる」という行動に対しての僕なりの考え方です。
正しいか、有用かは定かではないですが、皆さんの内省の一助になれば幸いです。
少なくとも僕なんかの意見を無批判に受け入れないでくださいね(笑)

では、また!

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