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コロナ禍と沈黙交易

差別が「恐怖心」に根差している以上、恐怖を克服することが出来ないから、差別は無くならないのだ。そういう議論はこれから出てくるのだろうか?本音ではあまり期待できないのだが、どうだろうか。

コロナ禍になって1年が過ぎようとしているが、一向に差別や偏見が無くならない。当然他の感染症の様に目に見える形では無いし、ましてや無症状者の多いコロナウイルスを相手では、誰が感染しているかわからないだけに全世界が「人狼ゲーム」の様な状態になったとしたら経済はどうなるのか?

そう思う人は、古来より経済の成り立ちから見直すべく考え直した方が良いのではないか。経済はいきなり物々交換から起こったのでは決してないのだ。今回紹介するフィリップ・ジェイムズ・ハミルトン グリァスン「沈黙交易―異文化接触の原初的メカニズム序説」という極めて濃い本を読んでみることをお勧めしたい。

この本は既に古典の部類に入っている。1903年出版であるから1世紀以上経っている。この本は、栗本慎一郎氏を私淑していた私が、いつかは読むべき宿命の様な感じがあった本だ。正直翻訳が良いとは思えないのだが、示唆している内容がそれを上回る重要さを持っていることで読まされた。頁数も200頁程なので割と早く読めた。

著者は、治安判事や訴訟弁護士を務めた人間で、専門の教授とかではない。イギリスで爵位を持っているので有閑階級の議論かと思いきや、相当に手広く研究している。それは内容でよくわかる。この手の人類学を「経済」で読み解く方法は、日本ではカール・ポランニーが有名であるが、社会学ならマルセル・モースの「 贈与論 」(レビュー)、マリノフスキー「 西太平洋の遠洋航海者 」は結構知られている。けれどこの本自体が全くと言って良いほど知られていない。日本で、民俗学の柳田國男、南方熊楠、折口信夫も各々が「沈黙交易」を報告しているが、体系だった議論をしているのは、私の知る限りで、栗本慎一郎氏と小松和彦氏位で、あと故・山口昌男氏を含めても、とても少ない。しかし、あのマルセル・モースは「 贈与論  」で注目して、解説もしている。

実は、経済行為は人間がそれを定義して初めて「経済」を呼べる代物であって、人間の生理行為、思考、コミュニケーションを含めれば理法、制裁(サンクション)、恐怖、暴力などのカオスも含めた包括的な議論が本来必要な存在なのだ。現在は議論から引退した栗本さんは、そのことが伝わらないことに憤りを感じ、最終的には人への説得も諦めてしまった。残念ながら「共感」が得られなかった。

無意識に人は行為を模倣するものであり、今では誰でもインターネット通販を利用を当たり前にしているが、なぜこのインターネット通販が普及したかの根本的な理由は利便性「だけ」では決してない。交流そのものを嫌と思う人が、実はかなり多いのだ。いや現在のコロナ禍だからこそ、非接触的な経済交流こそが、古典的ながらラディカルな恐怖心と好奇心を同時に克服する方法として選択されたに過ぎない。

人間には、気心も知れない異人(ストレンジャー)への「恐怖」が人間には潜在的に確実にある。でも成果物には「魅力」がある。だから、この理由から異人との交流に距離を置いて言葉も交わさず、物品の交換(相互贈与に近い)を繰り広げることになる。異人は過去では異邦人(エイリアン)や<鬼>や<魔物>と同断と考えていて、徐々に交流をしていくうちに、考え方に違いはあれど、我々と変わらない<人間>だと認知するに至る。そして、意思疎通も図れると意識されると、相互にコミュニケーションをするに至った。こういう長い長い歴史のコラボレーションの結果があって、交易に「商人」を介して、やがて経済交流を生むにまでなった。もっと考えれば、過去から「感染症」に苦しむ人々が生んだ無意識の構造の結果かもしれない。マルセル・モースの議論を参照した、レヴィ=ストロースも「無意識が生んだ構造」で似た考えを持っていたが、ここまでは考えてなかった。

明治時代でもラフカディオ・ハーンは当初異人扱いされ、村人から尻尾が生えているのではと噂され(恐らく体臭のせいもあって獣扱いされたのだろう)、それを確かめるべく村人に風呂場を覗かれたことがあったという。
ローマ史やギリシア史を紐解いても、この様な事例は山ほど存在する。これを体系立てて議論した人は、この著者が最初で、現在もほとんどいない。カエサルの「 ガリア戦記 」にも沈黙交易の事例がある位なのに。

構造分析の本なら昔話や神話、世界の民話や童話にもその要素はふんだんに盛り込まれている。人と狐、雪女、白雪姫や靴屋の小人の話など。この辺の議論は、栗本慎一郎・小松和彦「 経済の誕生―富と異人のフォークロア 」が参考になる。

交易を始めて、徐々に距離を縮めて、中立地での「市」が生まれ、その周辺に住居を構え、やがて「都市」にまで発展する。勿論モデル化は危険で、そのプロセスを得無いケースもあるので一概に言えない。だが、仲間内での盗みは厳正に処罰されるが、異人への強奪や盗みは、過去では多くの社会で貴ばれ、<尊敬>すらされていたのだ。大国ほど他の国がどうなろうが知ったことではないと考えているし、現代の多くの潜在的な「国民感情」がそれを物語っているではないか。

暴力行為は恐怖心の裏返しでもある。過去に異人や動植物と交流したことで、「疫病」が蔓延したことがあったかもしれない。インドでのカースト制に対する偏見が中々も払拭出来ないのも、最近のDNA調査でそういうボトルネックが厳然とあることが判明している(デイヴィット・ライク「 交雑する人類―古代DNAが解き明かす新サピエンス史 」参照)。実は日本の「おもてなし」も異人に対する「恐怖」の裏返しに過ぎないのだ。日本には丁重に「まれびと」の「八百万神」をもてなさないと、その村落が不幸になった昔話が山ほどある。日本人は、無意識に外来語の日本語化を拒絶することに長けている証拠もある。柄谷行人「 日本精神分析」にそのヒントがある。なぜ外来語はカタカナなのだろうか?その議論が良かった。日本語以外ではこういうケースは滅多にないのだから。

折口信夫は「まれびと」に注目し、柳田國男は「 遠野物語・山の人生 」でも狐、狸、天狗、山女、山男の存在(ほとんどは実際の<人間>が元なのだろう)とその交流がテーマになっている。こういう存在は社を立てたり、何等かの「沈黙交易」を行っていたケースが日本にも結構多い。沈黙交易の議論は、小松和彦&栗本慎一郎の対談「 経済の誕生―富と異人のフォークロア 」が参考になる。あとは最近文庫化された栗本慎一郎「 経済人類学 (講談社学術文庫) 」(レビュー)、「 経済人類学を学ぶ (有斐閣選書) 」(レビュー)が良い。



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