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最近の思うこと #同意とは

先日、メガネを買いに行った時の話。
フレームを選んでレジへ持って行き、「度数はどうされますか?測りますか?」と聞かれたので、測定することに。
機械の前に座ると、「ひらがなとかカタカナ読めますか?」と聞かれました。
おそらく僕のことを日本語が読めない外国人と予想して言ってくれたのかな、と思います。
「読めます😊」
こういうことはままあります。

誰かに話しかける時、人は「ある仮定」を持って話しかけるものなのかもしれません。
僕のことを「外国人」と仮定して、「読めますか」と聞いてくれた店員さん。
仮定は、気遣いに繋がっていたりします。
でも、仮定は仮定です。
「読めないに違いない」と決め込まれてしまうと、翻訳アプリまで登場することになってしまうかもしれません。

仮定に必要なのは、「否定してもらえるだけの余白」だと思います。
「決めつけ」にしたり、「自分の願望」に繋げてしまえば、それはもはや仮定ではありません。
相手に「否定してもらえるだけの余白」を残した状態で、仮定を提示することが大事だと思います。

「違うことは違う、嫌なことは嫌と言いましょう」
それはそう。
では「同意」とは、否定する側だけが負わなければならない責任なのでしょうか。
「否定しましょうね」と啓発しただけでは変わらない状況もあるのではないでしょうか。

「違うと言われなければOK」ではないし、「否定してもらえるだけの余白のない仮定であっても、形式上投げかておけばOK」にはなりません。

仮定を否定する権利は誰しも持っています。
でも、否定の余白を残していない場合、それは仮定ではありません。
否定する側だけでなく、「仮定を投げかける側」の態度により「同意」ははじめて生まれるのではないでしょうか。
「仮定を投げかける側」には、「肯定も否定も感じ取ろうとするセンサー」が必要なのではないでしょうか。

「きっとこうだろう」とか「自分の願望を叶えたい欲望」を完全に無くすことは難しいかもしれません。
でも、それとは逆の可能性を感じ取ろうとするセンサーは手放してはいけないと思います。
否定されるのは辛いかもしれません。
でも、「仮定を否定されること」と「存在を否定されること」は違います。

最近では自己肯定感というキーワードがとりざたされますよね。本来は人間関係やコミュニティの中で培われていくものなのですが、なぜか個人や単独で自己肯定感を上げていく考えになってきている。
ー中略ー
アメリカのビジネス・シーンで自己肯定感の相当するフレーズは「セルフ・エスティーム」です。外部のコンサルタントなどが従業員のセルフ・エスティームが低いのはどうしてかと考えた場合、まず組織上の問題を探します。
ー中略ー
セルフ・エスティームを個人の問題というより、周りの環境や関係性の問題として考えるのです。

自己啓発が流行りつづける背景/真鍋厚(SPECTATOR 51号

「自分は自分で喜ばせられる」(Bad Bitch 美学 Remix/NENEのリリックより)ものだと思います。
でも、「自分を喜ばせられるのは自分だけ、ではない」のだとも思います。
喜び合える関係を築いていくことを大事にしたいです。

*

Rinfinity~食にたずさわる人の生き方~
料理人や農業従事者の方へのインタビュー記事を発信しています。
第7弾、名古屋の南インド食堂「チェケレ」の中島憲二さん・中島加珠子さんのインタビューが公開中です!!




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