追悼・鳥山明「フランク・ロイド・ライト展」から鳥山明を考える!✡ジャポニスムとヲタク芸術の「闘争のエチカ」✡
「フランク・ロイド・ライト展」から
プロローグ・・・出発の日 2024年2月19日月曜日
私は「フランク・ロイド・ライト展」を観るために東京汐留を訪れました。
私は千葉県鎌ケ谷市に在住しているため「新鎌ヶ谷駅」を利用し北総開発鉄道から都営浅草線へ乗入れる直通電車を利用することができます。
他の経路と比べると北総開発鉄道は少し割高ですが今回はこの経路で「新橋駅」へ向かいました。
「フランク・ロイド・ライト展」を観に行った理由
僕は若い頃に建築の勉強をしていました。
紆余曲折はありましたが「二級建築士」も取得しています。
そしてその後、建築書を多く読みました。
特に近代建築家の名著は多く読みました。
近代建築家とはル・コルビジェ、フランク・ロイド・ライト、ヴァルター・グロピウス、ニース・ファン・デル・ローエ等がいます。
ル・コルビジェは著作が多く、フランク・ロイド・ライトも「自伝」など興味深い著作があります。
ヴァルター・グロピウスも名著が一冊ありました。
ただニース・ファン・デル・ローエにはまとも著作がなかった。
それが不思議に感じました。
彼には伝説的な名言として「神は細部に宿る」という一文があります。
これは「悪魔は細部に宿る」という昔からある建築屋の教訓から来ているようです。
ディテールに拘ることへ価値を見出した訳です。
一応は一通り勉強した訳です。
そういった人生経路を辿ってこの「フランク・ロイド・ライト展」を私は鑑賞することにしました。
私なりのテーマ
ここで私なりのテーマを決めたいと思います
私は常々建築や芸術一般の価値の判断とはイマーゴ(神の似姿)にあると考えています。
ただそういった意味でイマーゴ(神の似姿)を「パロディ対象」とした「オマージュ作品(イマーゴ作品)」があり、一方でイマーゴ(神の似姿)を「倒錯対象」とした「冒涜作品(最高悪崇拝)」があると感じています。
「パロディの定義」と「倒錯の定義」を確認します。
ただここに大きな陥穽が生じています。
それは「オマージュ作品(イマーゴ作品)」と「冒涜作品(最高悪崇拝)」の錯乱(倒錯)です。
イマーゴ(神の似姿)を「パロディ対象」とすることはあり得るのだろうか?
イマーゴ(神の似姿)を「倒錯対象」とすることはあり得るのだろうか?
では「パロディの定義」と「倒錯の定義」を確認します。
重要なことはパロディと倒錯の違いです。
ここで確認した「パロディの定義」によると「パロディ対象」はイマーゴ(神の似姿)となっています。
そして「倒錯の定義」によっても「倒錯対象」はイマーゴ(神の似姿)となっています。
ではこの2つの何が違うのでしょうか?
パロディと倒錯の大きな違いは「オマージュ(イマーゴ)」の有無だと言えます。
パロディには「オマージュ(イマーゴ)」があります。
しかし倒錯には「オマージュ(イマーゴ)」がありません。
倒錯は「冒涜(最高悪)」なのです。
フランク・ロイド・ライトと故鳥山明を比較してみたいと思います
私と鳥山明先生とのご縁
謹んで鳥山明先生のご冥福をお祈り致します。
私と鳥山明先生の直接的人間関係は存在しない。
ただ私は名古屋市立小幡小学校へ入学し1983年11月の修学旅行を終えた直後に千葉県船橋市高根小学校へ転校した。
転校理由は父親の東京本社栄転だった。
私は名古屋で育ち自分の地元と思っていた。
また顔なじみも多く小幡小学校からの転校は苦渋であった。
お別れのクラスで私は泣いてしまったことを今でも覚えている。
小幡小学校のクラスメイトとなり仲が良くなった何人かの知人がいました。
私は6年間近く在籍した小幡小学校であったため男子生徒や女子生徒に多くの知人がいた訳です。
その中の一人に〇〇さんという女子生徒がいました。
確か小学3年生~5年生の頃に同じクラスになったのではないかと記憶しています。
その女子生徒は私と比較的仲が良かった。
しかし私は放課後男子生徒と遊んでばかりいて、女子生徒と遊ぶタイプではなかった。
その女子生徒とはクラスでの付き合いで仲が良かった。
しかし放課後の付き合いはなかった。
隣の席になったり同じ班になったりそういった機会があって交友関係ができる程度のことです
ただ合コンや出会い系アプリで配偶者を見つける現代感覚と似たようなものかも知れません。
ある時、その女子生徒は私のところへやってきてこのように言いました。
「私のお姉さんが鳥山明と結婚する。もしよかったら鳥山明のサインを貰って来てあげるよ!」
私は鳥山明のサインと言うより、彼女の姉が鳥山明と結婚すると聞いて吃驚していました。
当時は「Dr.スランプ アラレちゃん」のアニメが大人気となっていました。
ただ「ニコちゃん大魔王」は「名古屋弁」を話していました。
そういったところを名古屋人が喜んでいいのかどうか複雑でした。
私にとって当時のフジテレビが登用していた鳥山明にしてもタモリにしても「名古屋文化」を「倒錯対象」とした「冒涜者(最高悪崇拝)」であるように感じていました。
そこにはイマーゴ(神の似姿)を倒錯する冒涜(最高悪)があった筈です。
今思えばその「倒錯対象」とは織田信長であるだろうと思います。
彼女の話を聞いて私はどうしてそうなったのだろうとちょっと思案してしまいました。
何故有名人の鳥山明と彼女の姉が結婚することになったのだろうかといった疑問です。
馴れ初めの方が興味がありました。
そういったやり取りを聴いていた男子生徒グループがすぐさまその女子生徒へ詰め寄りました。
「自分たちへ鳥山明のサインをよこせよ!」という訳です。
クラスは大騒ぎとなりました。
彼女はクラスが大騒ぎとなり男子生徒グループに詰め寄られて追いかけられてその場を逃げ出していきました。
その話はそこで立ち消えとなってしまいました。
ただこの状況から判断すると男子生徒グループはその女子生徒の姉が鳥山明と結婚することを知っていたようです。
私は全く知らなかった。
彼女に言われて吃驚していました。
彼女の家は当時の名古屋市立小幡小学校の近くにあったと思います。
何故ならば通学しているからです。
私は鳥山明先生とは直接的人間関係はなかった。
しかし私がその女子生徒の知人であったことから間接的な人間関係があったと言えるかも知れません。
鳥山明先生の漫画を購入したことはありません。
ただ1986年の中学校3年生の頃に学習塾へ通っていました。
その時一緒に通っていた知人が月曜日に販売される週刊少年ジャンプが土曜日に発売される商店を知っていました。
又、当時の「ドラゴンボール」はレッドリボン軍の話をやっていたのではないかと記憶しています。
どうだったかな?
私は80円を払ってそれを土曜日に読んでいたと記憶しています。
私がそれぐらいを払い、その知人がそれ以外を払い、週刊少年ジャンプを土曜日に購入して読んでいた訳です。
私はいくらか読んで雑誌本体はその知人の所有権となっていました。
今考えてみればその知人もせこい奴だった。
自分が買うなら無料で私に読ませてくれても良かったと思うからです。
私は土曜日に週刊少年ジャンプを読むために80円を払っていた訳です。
月曜日なら立ち読みが可能でした。
ヲタクの知人に感じた違和感
ヲタク芸術は「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」を主張します。
しかしヲタクの「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」の主張に「倒錯」と「冒涜(最高悪)」が感じられます。
私の中学校時代の知人もコミックマーケットに参加していました。
しかし私はコミックマーケットに一切参加しなかった。
彼らから誘われもしなかった。
その理由はよく分かりません。
私はアニメファンでありましたから彼らと付き合いはありました。
しかし彼らとは水が合わず一線を画していました。
それが理由かもしれません。
一度彼らが出品していた商品を見せてもらったことがあります。
彼らの作品の出来はともかくその作品に「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」はなく「倒錯」と「冒涜(最高悪)」を感じました。
本題
鳥山明の名作漫画「ドラゴンボール」は「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」でしょうか?
それとも鳥山明の名作漫画「ドラゴンボール」は「倒錯」と「冒涜(最高悪)」でしょうか?
私は思案します。
何故ならば「ドラゴンボール」は「西遊記」を対象作品としているからです。
これは私の意見ですが鳥山明は「倒錯」と「冒涜(最高悪)」の作品であると思います。
ではそれを何処で見極めればいいのだろうか?
「かめはめ波」を例に取ると分かり易い
「ドラゴンボール」の「かめはめ波」は「カメハメハ1世」に対して「オマージュ(イマーゴ)」を持っていません。
何故なら「語呂合わせ」で「カメハメハ1世」という語彙を使用したに過ぎないからです。
このような「語呂合わせ」に「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」は存在せず、それは「倒錯」と「冒涜(最高悪)」であるだろうと思います。
要は鳥山明は「倒錯」と「冒涜(最高悪)」であって「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」ではなかった。
ただ多くの「お笑い芸人」は「倒錯」と「冒涜(最高悪)」で笑いを取っていきます。
しかしそれは穢い笑いだと思います。
品のない笑いでした。
ではフランク・ロイド・ライトはどうでしょうか?
ジャポニスムを例にとって考えてみたい。
フランク・ロイド・ライトは日本の浮世絵コレクターでもあったらしい。
そして日本に来日し多くの素晴らしい建築を残したと言われています。
私もフランク・ロイド・ライト設計の「自由学園明日館」へ見学に行ったことがあります。
そこは「偶像崇拝のタブー」を「理想(理念)」としたキリスト教学校建築でありとても素晴らしかった 。
そういう意味で「有機的建築」でした。
何故ならば「偶像崇拝」によらず「神の恵み」を受肉しているからです。
ただフランク・ロイド・ライトとは「パロディ」と「オマージ(イマーゴ)」であるのか?
フランク・ロイド・ライトとは「倒錯」と「冒涜(最高悪)」であるのか?
それを明確にしなければなりません。
私はこの展覧会を見た限りフランク・ロイド・ライトの作品に「パロディの定義」を見い出しました。
「神の恵み」を受肉した「有機的建築」であるからです。
フランク・ロイド・ライトのジャポニスムに「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」を見ることができます。
ただこの展覧会の浮世絵に関しては「歌川広重の作品」が主に参考展示されていました。
フランク・ロイド・ライトは歌川広重(ブラックマジシャン)に対する「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」を持っているのか?
又はフランク・ロイド・ライトは葛飾北斎(ホワイトマジシャン)に対する「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」を持っているのか?
そこは興味深いところです。
歌川広重(ブラックマジシャン)は「倒錯」と「冒涜(最高悪)」と見做され、葛飾北斎(ホワイトマジシャン)は「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」と見做されます。
何故なら歌川広重(ブラックマジシャン)の「東海道五十三次」は人間関係による「倒錯の図」となっている。
一方で葛飾北斎(ホワイトマジシャン)の「富嶽三十六景」は山岳信仰による「倒錯を禁忌とした図」となっているからです。
そうなるとイマーゴ(神の似姿)を「パロディ対象」とした「オマージュ(イマーゴ)」は葛飾北斎(ホワイトマジシャン)に対してだけ可能となる筈なのです。
フランク・ロイド・ライトが「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」の人であるなら葛飾北斎(ホワイトマジシャン)をイマーゴ(神の似姿)としている筈なのです。
しかし「フランク・ロイド・ライト展」は歌川広重(ブラックマジシャン)を主に参考展示していました。
ここは奇妙な点でありました。
これはキュレーターと言うよりこの展覧会が「倒錯宣伝」(ブラックマジック)の一環であったため歌川広重(ブラックマジシャン)を登用したのだろうと想像されました。
意図的に葛飾北斎(ホワイトマジシャン)を外したのでしょう。
ただそうであっても葛飾北斎(ホワイトマジシャン)の浮世絵も少しは参考展示すべきだと思いました。
あまりにも露骨に葛飾北斎(ホワイトマジシャン)を外していたために「知識の廃棄」(ホワイトマジック)が逆に可能となっていました。
「ブラックマジック」に対して反転術式で「ホワイトマジック」を使った訳です。
それがキュレーターの真の意図であるのかも知れません。
この展示会で葛飾北斎(ホワイトマジシャン)が一切展示されていない事実は解せませんでした。
では故鳥山明はどうでしょうか?
鳥山明の「語呂合わせ」は「倒錯」と「冒涜(最高悪)」であり、フランク・ロイド・ライトの「ジャポニスム」は「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」であると見做せます。
鳥山明は「西遊記」や「カメハメハ1世」に対して「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」を持っておらず「倒錯」と「冒涜(最高悪)」を持っていました。
一方でフランク・ロイド・ライトのジャポニスムには「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」を見い出すことができました。
「偶像崇拝のタブー」によるイマーゴ(神の似姿)とは「有機的建築」という「神の恵み」の受肉だった。
それがフランク・ロイド・ライトの建築でした。
こう見ると鳥山明は「文化破壊」だった。
一方でフランク・ロイド・ライトは「芸術文化」だった訳です。
何故なら「倒錯」と「冒涜(最高悪)」は「バフォメットの偶像崇拝」だった。
一方で「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」は「イマーゴ(神の似姿)への信仰」です。
「ブラックマジシャン」の「魔女」を狩る
現代社会に於いて「バフォメットの偶像崇拝者」、「倒錯者」、「冒涜者(最高悪崇拝)」に対する「魔女狩り」の必要性が出てきています。
トランプ大統領は自らの発言に対する批判を「魔女狩り」だと非難しました。
しかし私見ですがイマーゴ(神の似姿)を「倒錯対象」とする「冒涜者(最高悪崇拝)」を「魔女狩り」で殺すことは「文化社会」の守護と発展に必要と思われます。
相手が「ブラックマジシャン」の「黒魔女」ならば「魔女狩り」は絶対に必要なのです。
ただ「カトリック信仰」を持っ た「白魔女」は「ホワイトマジシャン」と呼ばれ「文化社会」の「味方」です。
相手が「ホワイトマジシャン」の「白魔女」なら「魔女狩り」は間違っても行ってはいけない。
「ブラックマジシャン」と「ホワイトマジシャン」の見極めは非常に重要です。
「バフォメットの偶像崇拝」と「偶像崇拝のタブー」は「鳥山明」(ブラックマジシャン)と「フランク・ロイド・ライト」(ホワイトマジシャン)の対立点となっている訳です。
「バフォメットの偶像崇拝」は「サタン崇拝」であり、一方で「偶像崇拝のタブー」は「イマーゴ(神の似姿)への信仰」です。
それは「知識の鵜呑み」(倒錯作品)と「知識の廃棄」(パロディ作品)の違いとなっています。
結論
「ルネッサンスとヒューマニズム」と「黒ミサの儀式」は名作少女漫画「トーマの心臓」を想起させる
それは「ドラゴンボール」(ブラックマジック)と「自由学園明日館」(ホワイトマジック)の戦いであり、それは日本サブカルチャーとジャポニスムの違いから来ていました。
日本サブカルチャーはヲタク芸術(ブラックマジック)であり「倒錯」と「冒涜(最高悪)」でした。
一方でジャポニズムは文化芸術(ホワイトマジック)であり「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」でした。
私の結論を述べさせて頂くとイマーゴ(神の似姿)を持っているのはジャポニスムであって「芸術の形成」と言えました。
ジャポニスムとは「ホワイトマジシャン」の「白魔女」が司った「ルネッサンス」でありました。
そして「ヒューマニズム」となります。
しかしヲタク芸術はイマーゴ(神の似姿)を「倒錯対象」として「冒涜(最高悪)」しています。
これはハレンチ行為であるだけで「芸術の形成」ではありません。
ヲタク芸術とは「ブラックマジシャン」の「黒魔女」が司った「黒ミサの儀式」でありました。
それは「ルネッサンスとヒューマニズム」を「倒錯対象」とする「冒涜(最高悪)」なのです。
「ルネッサンスとヒューマニズム」を「倒錯対象」とする「冒涜者(最高悪崇拝)」は最悪の「黒ミサの儀式」を司っていく。
これは萩尾望都先生の名作少女漫画「トーマの心臓」のテーマでもありました。
サイフリートたちはユリスモール・バイハンを「黒ミサの儀式」に供し虐待しました。
それによってユリスモールは救済への道を完全に失ってしまった。
トーマ・ヴェルナーは愛するユリスモールを永遠に救済するために陸橋から飛び降り殉教しました。
それは永遠に覆ることのない「愛の証明」としてありました。
ユリスモールはトーマの愛によって永遠に救済され作品の最終盤に神学校へ旅立っていく。
一方で最悪の「黒ミサの儀式」とはウィリアム・シェイクスピアの「マクベス」を想起させます。
「マクベス」は滅びて行きました。
エピローグ・・・ドラゴンボール声優「野沢雅子」から
最後に・・・「ブラックマジシャン」には気を付けろ!
「ドラゴンボール」の孫悟空は声優「野沢雅子」が演じた。
「劇場版銀河鉄道999」の星野鉄郎も声優「野沢雅子」が演じた。
私は機械伯爵を倒した時の星野鉄郎(野沢雅子)が好きだった!
キャプテンハーロックの親友トチローも機械伯爵を自分の手で倒すために動きを追っていた。
クイーンエメラルダスの最愛の人だったトチローは宇宙病に罹って志半ばで落命する。
そして星野鉄郎はトチローの志を受け継ぎ機械伯爵を時間城で仕留める。
これが超名シーンである。
しかし星野鉄郎は機械化帝国の重罪人となってしまう。
この映画の最終盤で星野鉄郎と交わされたメーテルのセリフも有名であった。
「劇場版銀河鉄道999」のメーテルは「ホワイトマジシャン」の「白魔女」でした。
又、松本零士先生は「ブラックマジシャン」の「黒魔女」を倒す作品を多く描いている。
確かに鳥山明先生は大人気漫画家だった。
しかし日本サブカルチャーのヲタク芸術家だった。
そして「ブラックマジシャン」です。
松本零士先生も大人気漫画家だった。
しかし文化芸術家だった。
そして「ホワイトマジシャン」です。
その違いはイマーゴ(神の似姿)への態度による。
鳥山明先生はイマーゴ(神の似姿)を「倒錯対象」として「冒涜作品(最高悪作品)」を制作し人気を博した。
それはフジテレビの「楽しくなければテレビじゃない」と同じだった。
一方で松本零士先生はイマーゴ(神の似姿)を「パロディ対象」として「オマージュ作品(イマーゴ作品)」を制作し人気を博した。
それは東京放送(TBS)の番組制作と同じだった。
名作少年漫画「銀河鉄道999」も人気少年漫画「ドラゴンボール」もフジテレビ制作の傑作アニメとなった。
しかしこの辺りから「パロディ」と「オマージュ(イマーゴ)」から「倒錯」と「冒涜(最高悪)」へ番組制作の転換が行われた。
それが「ブラックマジック」です。
この頃はTBS今道潤三(ホワイトマジシャン)が死去して民間放送のオピニオンリーダーがフジテレビ鹿内春雄(ブラックマジシャン)へ移行して行く時期でした。
しかしそれはフジサンケイグループを率いていた鹿内春雄(ブラックマジシャン)の強引なキャンペーンで可能となっていた。
ただこの「ブラックマジック」にシェイクスピア「マクベス」の運命を見出すことは容易いと思います。
私はフジテレビアニメなら「銀河鉄道999」を最高傑作に選びます。
しかしそういったフジテレビの「ホワイトマジック」の作品制作は終わっていきました。
この頃からフジテレビと鳥山明先生は「ブラックマジシャン」の「黒魔女」として暴れ回った。
こういった意味で鳥山明先生の影響力は絶大でしたが「文化破壊」となった側面が大きい。
結局、鳥山明漫画とは「ギャグ(呪術崇拝)と偶像崇拝」の作品形成であって内容に乏しかった。
そういう意味で鳥山明作品の「ギャグ(呪術崇拝)と偶像崇拝」は「倒錯と冒涜(最高悪)」で形成されていた。
まさにこのような「呪文」の「偶像」のあり方とは「んちゃ、キーン」の「Dr.スランプ アラレちゃん」であり、「オラ悟空、かめはめ波」の「ドラゴンボール 孫悟空」であったのです。
そういった意味でこれら作品は質的に劣ることを意味していた。
あまりいい作品ではなかった理由とはそういったあり方が「ブラックマジック」であったからです。
しかし大人気漫画家として集英社(フジテレビ)の方々の「ドル箱」となっていたことは確かなのです。
集英社(フジテレビ)の皆さん・・・地位と名誉と金と女(男)を得られて良かったですね。
本当に羨ましいです。
福田恆存訳「マクベス」
きれいは穢い、穢いはきれい。
Fair is Foul, and Foul is Fair.
Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent.
フランク・ロイド・ライト参考文献おすすめ
ルイス・サリヴァンは「形態は機能に従う」の一文で有名なフランク・ロイド・ライトの師匠です。
「有機的建築」の基本的認識はイマーゴ(神の似姿)にあると考える。
何故なら「無機的建築」に対して「神の恵み」が受肉した「有機的建築」を提唱した訳です。
それは単なる自然素材崇拝ではなくイマーゴ(神の似姿)への信仰を示していると見做せる。
鳥山明名作漫画の情報
「闘争のエチカ」の由来
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