日記(-23/09/06)

あなた方は記憶され、苦しみの声は届きました。

映画「否定と肯定」

 ホロコーストを否認するエセ歴史学者との裁判を扱った映画「否定と肯定」を観た。それ以外にも映画やドラマを観たりした。そういう風に過ごして気づけば季節は秋だった。北海道は記録的な猛暑で八月半ばからしじゅうへばっていた私も、最近は朝夕なんとなく涼しくなって、生きやすい気候である。今日は北海道の震災から五年目らしい。そうか、そんなに経ったのか。あの日私は午前三時過ぎに地震で起こされて、まだ日も出ていない札幌の町、信号も消えて月明りばかりが頼りの区画を、友人と合流して、夜明けまで過ごした。その友人との往来は仲たがいして絶えて、あの震災下では分かり合えたものを、私は一人ぼっちのままこの初秋を迎えた。彼が元気であればいい。

 思い返せば今年の夏は、20代最後の夏だった。しかし何もなかった。人生の進捗、駄目です。二週間後にアガサ・クリスティの手になる名探偵ポアロのシリーズ映画の最新作「ヴェネチアの亡霊」が公開される。それまでにシリーズの過去作を振り返ろうと、一作目の「オリエント急行殺人事件」を観た。私は原作を読んだことがあって犯人を知っているから、おいおいポアロなんで気づかねえんだよともどかしかったけれど、犯人を知ったうえでなお面白い映画だった。犯人を目の前にする場面、やりすぎじゃない? お思うくらいには演出が凝っていて、私は嫌いじゃない。ミステリのネタバレはこのネット上ではたやすく見つかる。パロディも溢れている。たとえば私は鮎川哲也「白の恐怖」を読んだ後にクリスティ「葬儀を終えて」を読んでしまったから、その仕掛けに鼻白んでしまった。だからへたにミステリを読む前にクリスティは通過儀礼として通るべきだと思う。続く2作目「ナイル殺人事件」は、私が原作を未履修なこともあり新鮮に観られた。ポアロの過去も語られて、私が読んだ原作の範囲ではあまりポアロの素性が語られることが少なかったから、良いキャラ付けをされていて、こんど公開の映画への期待も高まる。クリスティの作品で打線を組むなら「愛国殺人」がエースで四番なので。私は「愛国殺人」を大谷翔平と呼んでいる。

「ナイル殺人事件」の一幕。結婚はしているの? とポアロが尋ねられて、その幸せはなかった、と応じる。するとすかさず「どの幸せならあるの?」と返されて、名探偵はとっさに口ごもってしまう。この場面が好きだった。「ナイル殺人事件」は全編にあらゆる愛の形を張り巡らせていて、愛に乏しい私にはまるで対岸の火事のように映った。そうだ。一人きりの夏。誰にも記憶されず、ただ無為に時間を浪費し、私の声は誰にも届くことはない。記憶されない声を、届かない言葉を、そうと知りながら繰り返す、これほど悲しい営みはない。徒労だ。とっとと死ぬべきだ。私は「容疑者xの献身」を観た。

 福山雅治が主演を務めたガリレオシリーズの初代劇場版、原作は直木賞も受賞している。東野圭吾の代表作といって過言ではない。私は高校時代に一度小説を読んだきりで、けれど最後の場面の慟哭を憶えているから心に残ったミステリだったのだろう。いざ今度、実写で見てみて、堤真一の演じる犯人像に私は滝のように泣いた。誰からも見向きもされず、今の世でいう弱者男性然とした彼が、一世一代の難問を福山雅治に投げかける。私は何度福山雅治に挫折してほしいか祈っただろう。謎を解くな敗北しろと念じただろう。一見平凡な職務や人格についている人が、探偵役を振り回す瞬間を見るのが私の趣味だ。ドラマ「相棒」でいうならs9e1「聖戦」が大好きだし「古畑任三郎」なら新春スペシャルの「今、甦る死」が大好きで、探偵が負ければ負けるほど興奮する。ただ負け越してほしくはないから、きちっと犯人を捕まえてほしいという感情もあって、小説でいえばクイーン「ギリシャ棺の謎」みたいに何敗しても最後には鮮やかな一勝を飾ってほしいのだ。しかし勝ち誇ってほしくもないので、何かしらのわだかまりを残してほしい。これは厄介なミステリファンの証左である。そんな私に「容疑者xの献身」は刺さったし、原作とは違った味があってよかった。そしてまた「ナイル殺人事件」も、観た後に言い表しようのない諦念や悔恨が湧き出てきて、名づけようもない感情を持て余している。

 日記。たまにはきちんと本を読むかと思って、前々から気になっていた石川陽一「いじめの聖域」を買った。著者を調べると私と同級である。早稲田卒。記者職。うっひゃあ絵にかいたようなエリート! Twitterのアカウントもあった。最近始めたらしい。タイムラインを遡る。

 吐きそうだった。泣きそうだった。俺も妻に勧められてツイッターを始めたかった。吐かなかった。泣かなかった。私は29歳のいい大人だから。大人はちょっとやそっとのことじゃ泣かないのだ。平気だよ。嘘じゃない。ふつうはこの年になるとみんな結婚してるもんなんだよ。ただ俺にはその幸せがなかっただけ。どの幸せならあるのw? うるせえ殺すぞ。人生の進捗、駄目です。誰か俺を記憶してこの怨嗟の声を届けてはくれないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?