新年なのだ

 おはようなのだ。はじまりの挨拶なのだ。みんなは新年始まっているのだ? 今日から2023年になっているのだ。ほんとうはまだ10年代くらいの気分なのだ。20年代に入ってもう3年経ったことがにわかに信じがたいのだ。けれど始まったからには仕方ないのだ。明けましておめでとうございますなのだ。


 正月とはいっても近場に親類もなく友達もいない身にあっては、近所のスーパーが閉まってて不便な一日でしかないのだ。冷蔵庫を開けるのだ。何もありゃしないのだ。コンビニに朝食代わりのおむすびだとかを買いに行くのだ。外に出るとみょうにしゃんとした空気、なるほどいかにも新年らしく静かで、道行く人も車通りもほとんどなく、年賀状を運ぶひとたちばかりがちらほら、早々からお疲れ様ですなのだ。コンビニに入ると店員さんが、お疲れ様ですなのだ。家に戻るとマンションの管理人が道を履いていてお疲れ様ですなのだ。こうやって世の中は回っているのだ。明日からは回す側になるのだ。今日のところは寝正月を過ごさせていただくのだ。

 抱負を書くのだ。たくさんの本を読むことなのだ。それだけが生きがいなのだ。去年は失恋から手当たり次第に女に手を出し、痛い目を見たのだ。体を重ねようが分かりあえない人がいるのだ。ことばをいくら交わしても通じない人がいるのだ。赤の他人だから仕方ないのだ。自分を悲しませないものを世界の全てにできたらいいのだ。自閉してゆく一年にするのだ。

 今月の半ばには観たい映画が公開されるのだ。「そして僕は途方に暮れる」なのだ。映画の内容は知らないのだ。同名の曲が好きなのだ。映画では主題歌になっているらしいのだ。古い曲だけどとてもいいのだ。歌詞を引用するのだ。『ひとつ残らずきみを/悲しませないものを/きみの世界のすべてにすればいい』よいサビ部分なのだ。作詞は銀色夏生、さすがなのだ。そのあと、そして僕は途方に暮れる、と沈んだ調子で歌が続くのだ。新年一発目に聴くべき歌なのだ! 今年の紅白にも出てほしいのだ。気が早いのだ。

 とどのつまりは途方に暮れて、やむなく自分も自分の世界で生きるしかないと、諦めたのだ。悲しませないものはもう読書くらいしかないのだ。中2のころから始めて、もう人生の過半を趣味は読書で通しているのだ。なかなか読みたい本を読む時間がないのが実情なのだ。新年一発目の本は、高山羽根子「首里の馬」にするのだ。先月文庫化されたばかりの芥川賞受賞作なのだ。冒頭から文章がきちんとしていて、とても好印象なのだ。よい読書初めになればいいのだ。

 今月の同じく半ば頃には芥川賞が発表されるのだ。候補のメンバー中には安堂ホセという、河出デビューの、黒人系の人がいるのだ。詳しくないので間違ってたらごめんなさいなのだ。いかにも河出らしいのだ。そういう都市の、晴れやかな、多様な、豊かな、鬱屈してみせた、感傷的な、整ったイメージが河出にはあるのだ。というより最近の文芸書全般にあるのだ。浅い文芸時評なのだ。やめたらなのだ。やめるのだ。どうあがいても悪口になりそうなのだ。たぶんもう己が読者としてターゲットにされているタイプではなくなっただけなのだ。自分に合いそうな物語を探すのがいちばんなのだ。ほんとうはもっと早くに読書をやめて対外的な趣味を新たに見つけていられたら良かったのだ。見つからなかったのだ。だから本を読むのだ。

 本を読む楽しみは人それぞれなのだ。江戸時代の歌人、橘曙覧にこんな一首があるのだ。『楽しみはそぞろ読みゆく書の中にわれとひとしき人を見しとき』よいうたなのだ。全く同じスタイルなのだ。もちろん知見を広げるとかそういう楽しみもあってしかるべきなのだ。ただ己は、橘曙覧のほうに肩入れするのだ。時代も国も違っても、書かれていることばがすとんと胸に入り込む一瞬、自分にとってかけがえのない一文に出会う瞬間、息が止まり総毛立ち書き手の呼吸が聞こえるようなあの感覚を求めて、たくさんの本を読んできたのだ。たくさんの本を読んでいくのだ。良い一年になればいいのだ。


 おはようなのだ。始まったのだ。新しい年なのだ。新しい朝なのだ。みんなも始まっているのだ? 良いスタートを切れたらいいのだ。今年もよろしくお願いしますなのだ!

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