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ものごとの見方

ものごとを正しく見ることは、難しい。仏教では八正道という目指すべき実践徳目の先頭にあげられている。
我々はつい自分の都合でものを見る。一つの事実を片方からみるとAと見え、違う立場からみるとBと見える。当事者でないなら比較的客観的に見えるが…それでも生きてきたなかでの体験に囚われてしまう。
SNSで見ていて感じるのは、都合で見てしまうこと。
同じような行動でも自分の嫌いな人物だと批判的に扱い。好きな人物だと肯定的に扱う。

確かに批判的に扱うべきケースはある。しかし、その人物が反省し、謝罪し、そのコミュニティから距離を取った時まで批判を加えるのは正しいのであろうか?事実を認めるという正見から生み出されたものを否定しているとも言える。

嫌いな人物が生み出した集団のメンバーが、やらかすとその集団は腐っていると述べるケースがある。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の領域になっている。

また、一人の人物が嫌いだからといってすべてを否定的に扱うのも違和感がある。人間は多面的であり、ある部分では融和的であり、ある部分は排他的になったりする。
平野啓一郎氏は
『私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書) 』で、首尾一貫した個人というものがあると考えるのではなく、状況によってあり方がかわる。人間の多面性を指摘している。

人間は首尾一貫していなくてもおかしくない。また、その時代の社会的ニーズに負けてしまうケースもある。弱さを見つめ、認めることが必要な場合もある。ただしケースであり、それがすべてではない。殺人や窃盗、詐欺などや意図的な嘘、事実を認知しないしたくないなどは、ともに生きるのが難しい場合もある。その用なケースは、個人的には批判するより、距離を取ることをしている。
あいてが直言を聞けそうか?否か?を考えてしまっている。それもまた我見であり、都合でものを見ているとも言える。

人間関係も私の心も無常であり、また空だとも言えるのかな?(笑)

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