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事業仕分け

コロナ禍となり、やることやらないことが徐々に明確になってきた。

もともと人付き合いが得意ではない。また今年で五十歳になり、現役として仕事ができる年数も限られてきた。沢山のことを行うより、やりたいこと、苦なく続けられることを行うところにきていると思う。

親子に集まってもらっていた節分も、子供会では行う予定だが、三年前の様に宣伝したり、レクをしたりは密になるためできそうにない。

逆にリアル読書会やリアルデスカフェは、コロナの感染状況によりながら開催したいと思っている。これらは、究極、人がいなくても自分はできるし、一生涯やろうと思えるし、自分なりの仏教的思考にもマッチしていたりする。

昨年からの個人的変化は、小説を読むようになったことだと思う。娘に勧められ読んだのは、『舟を編む』

言葉に関わる小説ですが、ある意味で死者と生者の関係性、叡智の受け渡しが語られています。

死者とつながり、まだ生まれ来ぬものたちとつながるために、ひとは言葉を生みだした。(258頁)

我々の存在を残す大切な道具として言葉があり、そこから歴史が生まれてくる。とすれば、これは法事や葬儀も同様な意味を持たないだろうか?

我々は法事をして故人を偲ぶ。それは故人のあり方を学び、自分の人生に活かす契機となる。一方で他者の死は、自己の死を想起することにつながる。我々はいずれ偲ばれる存在になる。場合によっては、これから生まれ出るものに偲ばれることもあるかもしれない。その時どう偲ばれたいか?が大切である。法事を通して人生を見つめる。そのなかで人生の事業仕分けができるのかもしれない。

ブッダの言葉に有名な以下のものがある。

なしおえた後に後悔して涙して嘆きながら苦い報いを受けるなら、それは良い行為ではない。ある行為をして後で後悔することなく、喜び、こころ楽しく報いを受けるなら、それは良い行為である。出典:『ダンマパダ』67-68

欲望を減らし、自己を大きな視点で見た上で、肩書におどらせられたりしないで、自己の人生を見直し、事業仕分けをしたいものだなとおもう。

ちなみに変わることは今この瞬間から可能である。と法事では言っている。生きる、なるべくイキイキと生きるための契機に法事はなりうると参列者には話すし、それこそが故人の願いではないか?とも話している。

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