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グッド、ベター

出版イベントに参加した。本の内容のダイジェストを聞いて、問いを受けグループで考えるを行っていた。

その中で日本語で「よき祖先」という言葉になるが、著者のローマンさんは「THE GOOD ANCESTOR」と言い、帯書きに引用されたオ−ドリー・タンさんは「become better ancestors」と表現されていたことを知った。

どちらも「よき先祖」だが、グッドが「よき」ならばベターは「よりよい」になろう。と考えるとタン氏の表現は興味深いと言う話になった。

我々は「よりよい祖先たちになれるか」とかんがえると2つの意味が見えてくる。一つは本にもある長期思考であり、未来から今を照らす考えである。これは、ハラリ氏の『サピエンス全史』『ホモ・デウス』『21Lessons』の思考に近い。過去を知り、未来を予測し、今を生きる。

もう一つは、一人ではない集団性だと思う。「ancestors」の「s」は大切だ。一人が気がつくでは駄目で共にという考えが示されている。

我田引水だが、仏教も悟りはブッダが個人で悟ることから始まった。しかし、それだけなら消滅していたであろう。悟って、梵天という他者の要請に答えて悟りへ至る方法、世の中を穏やかに生きる思考法を伝えた故に、今も仏教がある。始めは一人であったが、共に歩く人々が増えていきサンガが生み出された。その中には世俗世界を超えて、カーストがない世界を築いたと言える。但し、超俗の世界は、俗からの支援すなわち布施に基づくので、世俗世界に基づく2階建てであった。ブッダは世俗のあり方には文句を言わなかった。悟りを目指す集団としてサンガがあったのだ。

鎌倉時代の日蓮聖人はこれとは些か異なる。俗界にも口を出している。立正安国論はそもそも為政者に向け書かれている。為政者が現実に向き合わず、来世極楽を乞うそれでは現世は良くならないという視点である。

理念を知る僧侶が、政治家に良き思考方法を提示し、その思考方法を現実に活かして、善政をしくというのが理想像であったのであろう。

また、身分階級も熱原法難で否定し、信仰があるなら身分制度は問われない、神仏の加護は年貢等を払う、払わないではないと考える。それ故にすべての日本人が法華信仰になれば平等になるし、その住まう国土も神仏の加護をうけるからユートピアが出現すると考えたのであろう。ただこれは、鎌倉時代、為政者が強力なリーダーシップを持っていた時代での話だと思う。今の時代にも同じ論理構造になるかと言われれば、個人的にはかなり危険だと思う。信仰を強制し、価値観を一つにする。それはある意味、善を目指したとしても共産主義や帝国主義に近い。そっくりそのまま持ってきてはいけないと感じる。

となると、集団性の獲得は強制であってはならないとなる。丁寧な説明、納得が得られる振る舞いによるのではないだろうか?

コロナ禍でロックダウンが出来る、出来ないが問われた。確かに感染症対策としてロックダウンは有効な手段ではあるが、それは一人一人の自覚や成長を促すだろうか?

多くの人々がベター・アンセスターになるには、地道な啓蒙活動と行動が求められて行くように感じられる。

ただそれは必要不可欠ではあるが、至難な道でもある。自己の欲望を制御し、後の世代へより良き環境や社会を残そうという試みだからだ。逆にそのような目的だからこそ、寺院や僧侶が積極的に関与すべき問題なのかもしれない。

今までは、供養や葬儀が主たる活動であった寺院が、その根底まで見直せば、ハラリ氏の思考方法に近くなる。死者と私達の関わりを考える(過去を知る)になるであろうし、そこから未来を見つめ、今を生きるにつながるはずだ。

だとすれば、その根底を踏まえて我々はなにができるのか?問われているものは大きい。

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