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リレーエッセイ「訳書を語る」/幸運の女神に導かれて(大西愛子)

はじめまして。フランス語の翻訳をしております大西愛子と申します。よろしくお願いします。

出版翻訳というと文芸翻訳を思い浮かべる方も多いと思いますが、わたしはバンド・デシネというフランス語圏のマンガをおもに訳しています。現在翻訳中の作品2作について書きたいと思います。 

バンド・デシネというのは一般には「タンタンの冒険」でおなじみのスタイルのマンガ本です。フルカラーでハードカバー、判型は日本のA4サイズよりも少し大きい感じです。長さは50ページくらいで1話完結。シリーズものになっていても1~2冊でひとつのエピソードを構成しています。日本のマンガのように物語が数十巻にもわたって続くということはほとんどありません。その代わり人気シリーズになると、作者を替えて続けられることがままあります。「スピルー」「アステリックス」や「スマーフ」などは作者が替わっても続刊が出て読み継がれています。 

天から降ってきた『ブラックサッド』 

1作目はフランス国内だけでなくヨーロッパでも人気の『ブラックサッド』シリーズの最新刊です。これはわたしがバンド・デシネを訳すきっかけになったシリーズでもあり、思い入れがあります。バンド・デシネをわたしが訳すようになったのは本当に偶然で、早川書房の編集者さんとたまたまお目にかかったときに名刺をお渡したところ、後日早川の別の編集者さんから「フランスのマンガを訳してみないか?」という打診を受けたのが最初でした。わたしは中高時代をフランス語圏の国で過ごし、フランス語で教育も受けました。当時、フランス語で小説を読みこなすのは無理だった頃もバンド・デシネなら絵の助けもあってなんとか読んでいました。それでフランスのマンガがどのようなものかは知っていましたが、大人になってからは読む機会もなく、最新のバンド・デシネ事情はまったく知りませんでした。ですから訳す本を渡された時は予想外の世界にカルチャーショックを受けました。それがこのフアンホ・ガルニドとフアン・ディアス・カナレスの『ブラックサッド』だったのです。 

『ブラックサッド』とはハードボイルド調のバンド・デシネなのですが、登場人物はすべて動物です。というより、身体は動物で、行動などは人間と同じなのです。舞台は1950年代のアメリカ、黒猫の探偵ジョン・ブラックサッドが事件を解決していくというシリーズです。翻訳を依頼された2002年にはまだ2巻までしか出ていませんでしたが、その後数年おきにかなり緩やかなペースながら現在第6巻まで刊行されています。日本語版は早川書房から最初の2巻が出たあと、さまざまな事情により現在は飛鳥新社から第5巻まで出ていて、すべてわたしが翻訳を担当しています。

第1巻はブラックサッドのかつての恋人ナタリアが惨殺死体で発見されるところから始まります。ニューヨークの警察署長はシェパードのスミルノフ。ふたりで協力して事件を解決するという話です。第2巻では人種差別の問題が取り上げられ、相棒である貂のウィークリーもこの巻から登場します。その後第2巻の登場人物の依頼でラスベガスに行くのですが、そこでかつての恩師と出会って別の事件に巻き込まれ…というふうに、各エピソードは独立して読めるものの、時系列的には必ず前の巻の続きになっています。また過去の巻に出ている登場人物が意外な形で再登場したりもします。

日本語版表紙

ブラックサッドはフランスで大人気のシリーズなのですが、第5巻が2013年に発表された後、作者ふたりがそれぞれ別の作品に取り組み、しばらく新作は出ていませんでした。そしてようやく昨年、2021年なって第6巻が刊行されました。今回は初めて2巻本で一つのストーリーを語るという形になりました。第7巻は2023年に発表とのこと、まだまだ先は長いです。翻訳前に第6巻を読みましたが、その終わり方がまた衝撃的で…この続きを一年以上待たなくては読めないなんて! という気持ちです。

そして結末がどうなるかをわたし自身も知らないので、第7巻がはたして自分の翻訳と整合性が取れているかも心配で、スリル満点です。ブラックサッドは第3巻でラスベガスに行きましたが、その後第4巻ではニューオーリンズ、そして第5巻ではテキサスをまわり、第6巻でようやくニューヨークに戻ってきました。今回の物語にはシェイクスピアの舞台を演じる劇団が登場し、『テンペスト』『ロミオとジュリエット』『マクベス』の舞台の様子も描かれています。シェイクスピアからの引用もたくさんあるので、どの訳を使わせていただこうかということも考えなくてはなりません。基本、ある作品からの引用がある場合、日本語の訳があればそれを使うのですが、シェイクスピアはたくさんの翻訳者が訳されているのでとても迷います。物語の舞台が1950年代なので同時代の日本語訳があれば…と思ってはいるのですが。『ブラックサッド』はハードボイルド作品なので、台詞の口調にも気を付けなくてはなりません。自分が日常的に使わないような言い回しなどが出てくるため、できるだけ雰囲気が出るように、訳す前に原尞やチャンドラーの作品を数ページ読んでその世界に浸るようにしています。というのもブラックサッドの作者でシナリオを書いているカナレスのテキストがまたカッコイイのです。できるだけその雰囲気を壊したくないし、そのカッコよさを訳出したい。けれどもそこにはマンガを訳すときの罠もあります。つまり吹き出しに入る文字数にしなければならない。ここがバンド・デシネを翻訳するときに一番苦心するところでしょうか。

ブラックサッドはガルニドの画力が素晴らしく、一コマ一コマがまるで一枚の絵画のように描きこんであって見飽きることがありません。けれども翻訳する身としてはあくまでカナレスのテキストと向き合うことになります。ガルニドの絵の邪魔にならないようにしながらも、カナレスの文学的で美しい台詞をいかに訳すかに一番のポイントを置いています。また、シリーズものなので、登場人物の口調などがあまり変わってしまってもいけないし、そこも気を使っています。

 新作の第6巻の原書(表紙だけでなく、数ページ閲覧できます)

『ワイン知らずマンガ知らず』- 巡り巡ってわたしの元へ

『ブラックサッド』の新作を訳す傍ら、翻訳している作品がもう一つあります。こちらはまた打って変わってドキュメンタリーものです。エティエンヌ・ダヴォドーの“Les Ignorants”という作品ですが、直訳すると「無知な者たち」という意味になります。でもこれだとなんのことかわからないので仮題として『ワイン知らずマンガ知らず』としています。この作品は以前フランスで出た時にすぐ読んで面白いと思ったので知り合いの編集者さんに持ち込んだのですが、興味は持っていただいたものの、最終的に企画が実現することはありませんでした。ところが世の中何が起きるかわかりません。昨年になってイタリア語講師の京藤好男さんが発起人となり、この本の翻訳出版を実現するためのクラウドファンディングプロジェクトを立ち上げられました。京藤さんはイタリア語訳を読まれて訳したいと思われたのですが、フランス語の原書から訳すのが望ましいということでわたしに話が回ってきたのでした。こんな夢のようなことが現実に起きるなんてにわかには信じられない気持ちでしたが、本当にありがたいお話で、翻訳を任せようと指名してくださった編集主幹の原さんにも、またその決断を快く受け入れてくださった京藤さんにも、感謝の気持ちでいっぱいです。クラウドファンディングはなんとか無事成立して現在下訳を仕上げ、これから訳とマンガの絵を合わせた形で原稿をチェックし、読みやすくしていく作業に入ります。 

『ワイン知らずマンガ知らず』 通常版 

この本は漫画家の作者ダヴォドーが知り合いのワイン生産者ルロワからワイン造りのノウハウを教えてもらう代わりに自分の仕事であるバンド・デシネの世界をルロワに教えるという異業種交流の物語です。実際にふたりは1年半かけてワイン造りをする傍らバンド・デシネを読んだり、作家や生産者に会いに行ったりします。そしてその経緯をすべて描いたのが本書というわけです。刊行は10年前ですが、以来ずっと再版を重ねて読み継がれ、昨年10周年記念版が限定部数で発行されました。巻末には主人公二人と編集者のジャンドロ氏の対談があるのですが、そこにはこの本が今回日本語にも訳されることが書かれており、ますます翻訳に力が入ります。

 『ワイン知らずマンガ知らず10周年版』(翻訳底本)  

海外マンガの読者というのは日本ではあまり多くなく、おそらく海外マンガファンの多くはアメリカン・コミックスの読者でしょう。バンド・デシネにはまだ知られてない名作がたくさんあります。しかし読者が限られていると出版に至る道は険しく、たとえ世に出ても再版されることは稀で、すぐに市場から消えてしまうこともあります。そういう意味ではクラウドファンディングというシステムで出版するのは一つのやり方かもしれないと思います。

また、クラウドファンディングではまず支援してくださった方々に翻訳をお届けするので、一般向けに訳すときよりも読者をイメージしやすく、訳者のモチベーションも上がります。

幸運が重なり、大好きな作品2作に関われて本当に幸せです。『ブラックサッド』は飛鳥新社から『ワイン知らずマンガ知らず(仮)』はサウザンブックスから刊行予定です。春になる頃にはお届けできると思いますので、どうぞお楽しみに。お手にとっていただければ幸いです。少しでも海外マンガのファンが増えることを願ってやみません。

 ■執筆者プロフィール 大西愛子(おおにしあいこ)
フランス語翻訳者。翻訳デビュー作はステファヌ・マルシャンの『高級ブランド戦争—ヴィトンとグッチの華麗なる戦い』というノンフィクションで、最近はおもにフランス語圏のマンガ、バンド・デシネを訳しています。おもな訳書はガルニド&カナレス『ブラックサッド』シリーズ(飛鳥新社)。エマニュエル・ギベール、ディディエ・ルフェーヴル、フレデリック・ルメルシエ『フォトグラフ』(小学館集英社プロダクション)。カトリーヌ・ムリス『わたしが「軽さ」を取り戻すまで』(花伝社)など。2021年にはフランスでコロナ対応に追われる医師のドキュメンタリー・バンド・デシネ『「女医」カリン・ラコンブ:感染症専門医のコロナ奮闘記』(花伝社)も出ました。

 

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