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5階で停まる(2005年07月26日)

2005年07月26日 記

 女が堕ちたのだと聞いた――数年前のことである。真偽の程は定かではない。けたたましいサイレンの音に誘われて表に出ると、向かいのご主人がいた。彼は通路の壁から身を乗り出すようにして、階下を見おろしている。思わず僕も同じように身をかがめて、その先に視線を向けた。地上では、エレベータ脇の小庭に救急車が停まっているのがうかがえる。向かいのご主人に話を伺うと「子供が落ちた」と言う。はたして、目を転じると、ぐしゃぐしゃになった自転車らしきものがぼんやりと見えた。子供がなにかの拍子に自転車ごと落下したのか。しかし、子供が乗り越えられるほど通路の壁は低くはない。なにか釈然としないながらも、救急車が走り出したのを潮に、僕達はそれぞれの家に帰った。

 次の日の朝、子どもを保育園に送るときに、あらためて現場の前を通った。小庭に敷き詰めてあった砂利が、まだあたりに散乱している。設えてあった侵入者よけのフェンスは、ものの見事にぐにゃりと折れ曲がっている。たしかに何者かの強烈な力が作用したのは明らかだった。二人で「ひどいねぇ」「落ちちゃった子、大丈夫かなぁ」などと言っていると、見覚えのある主婦から声をかけられた。「昨日は驚きましたねぇ」と水を向けてくる。僕が曖昧に受け答えしていると、「女の人が堕ちたらしいですよ」と言う。「えっ、子供が落ちたって聞きましたけど」と驚いて答えると、彼女は待ってましたとばかりにべらべらと喋りだした。

 彼女の話によると、昨日落ちたのは女だという。ここの住人ではないそうだ。育児ノイローゼの末に、うちの5階に忍び込んで飛び降りたらしいと主婦は言った。どうしてそんなにはっきりと断言できるのか少々疑問に思ったが、僕はあえて反論せずに適当に相槌を打って、彼女と別れた。女が落ちたところを僕は見ていない。飛び降りた女は死んだとも後で聞いたが、事の真偽は今でも分からない。僕が見たのは、折れ曲がったフェンスだけだ。そのフェンスもその日のうちに修理された。またたく間に、昨日の出来事はなかったことにされた。だがその出来事があってから、ひとつだけ不思議なことが起きるようになった。ときどきふいに、エレベーターが5階で停まるのだ。辺りを見回しても人影はない。今日も出掛けに、ふいにエレベーターが停まった。やはり5階。何者かの最後の抵抗のように思えるが、それを気にする住人は今ではもう一人もいない。

2024年03月29日 付記

 二十年も経つと、さすがに住人の誰ともこの話をすることはない。いまだにときどき五階で停まるけど。

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