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戦後視線なら何とでも評価できる

大鑑巨砲は日本海軍だけの思想ではなかった
戦艦が活躍しなかったというのは航空主兵の流れによるもの。
複葉機時代に設計・建造され、航空機が急速に進化した。
空母機動部隊が戦艦より優位であることを証明してしまったのも日本海軍でした。
これは戦艦建造時には世界中の誰も分からなかったことで、戦後の知識で批判することは誤りでしか無い。
日本も空母を量産しようとするが、搭載する飛行機不足となっていたため、空からの護衛がないまま、艦隊は戦う羽目に陥った。

日露戦争中の明治37年度に横須賀で建造された戦艦「薩摩」が日本初の純国産戦艦でした。軽巡に見えますね。

国産戦艦「薩摩」

第二次世界大戦で有名な日本の戦艦

金剛型戦艦「金剛」英国の造船技術
金剛型戦艦「比叡」
金剛型戦艦「榛名」
金剛型戦艦「霧島」

扶桑型戦艦「扶桑」
扶桑型戦艦「山城」

伊勢型戦艦「伊勢」のち航空戦艦→輸送戦艦
伊勢型戦艦「日向」

長門型戦艦「長門」不沈艦と称された
長門型戦艦「陸奥」

大和型戦艦「大和」
大和型戦艦「武蔵」
大和型戦艦「信濃」は長期にわたり超大型空母に改修される(戦艦→空母の転換は、造船職人の士気低下=空母の評価が低かった時代でなかなか工事が進まなかったとも、単に横須賀の技術が未熟だったとも言われる。大和(呉)・武蔵(長崎)の激闘とは違って信濃はあっさり撃沈された事から横須賀の造船技術が疑われた)空母信濃は南海トラフの超深海(6000~7000m)に沈んでいるため、調査が困難。空母は何故か水深の深いところに沈みますね。

戦後に結果を見て大鑑巨砲主義を馬鹿にするのは歴史音痴というしか無い。

戦争で技術が進む
戦時中の新技術は、戦後の造船に役立った技術も多い
凌波性を高めた球状艦首は、「翔鶴型」「大鳳型」「飛鷹型」「大和型」「大淀型」「阿賀野型」に採用された技術です。
今では中型以上の漁船にも採用されるくらい効果が実証されています。
大和型の球状艦首には零式水中聴音機四型が左右1基ずつ搭載されていました。
停泊中には30km先の味方の潜水艦の音を感知したという。
艦首側 46糎三連装砲の約2,760トンが回転する騒音、主砲発射音などがあると水中聴音できなかったようですから、戦闘中には役立たなかった可能性あり。
レーダー技術で欧米に遅れを取り、近接信管の開発が間に合わず、工場空襲と東海地震で飛行機の量産が出来ず、日本海軍は後半戦で苦労した。
中型・大型空母で必要と言われるカタパルト実装に至っては今も実現(海自のいづも型でも)していないので、F-35はフル装備での発艦は難しい。

大和型戦艦
戦後にアラ探しをされまくった戦艦ですね
実はロストテクノロジーの塊でもありました。

戦後は、左翼の時代
旧軍を憎む左翼学者や韓国人学者も多かったですからね。
正当な評価をされ始めたのは左翼学者が減ってからのこと。

全長263m、全幅が38.9mの戦艦としては世界最大となった巨艦
機関の出力は15万馬力
大和のスクリューは4つ、直径は5メートルもあった。
前後縦配列の2枚の舵による旋回直径は26ノット時で縦589m、横640mと旋回半径が小さかった。転舵時の船の傾斜も9度に収まっていた。
これは戦艦ではトップの旋回性能でした。

大和型のキール(竜骨)はなんと2本並行に並んでいました。背骨が2本ある様なもの
船の前後の強度を司る主要部材であるキールは通常1本で、折れると沈没します。

保守的な平賀、新技術の藤本
藤本海軍艦政本部第四部基本設計主任は友鶴事件で謹慎処分となり、脳貧血で急逝している。

1931年3月20日に予備役編入されていた平賀 譲(ひらが ゆずる)海軍技術中将
1935年3月22日、船体抵抗実験をまとめた論文はイギリス造船協会に評価され、外国人初の1934年度金牌授与を決定。同年4月1日 海軍艦政本部の造船業務嘱託、そのころから超弩級戦艦「大和」(大和型戦艦)の設計に携わる。
大和型は防水隔壁の数が過小(20年も古い長門型と同数の23)、被弾、損傷時に於けるダメージコントロールの研究も怠っていた(反して藤本喜久雄はよく研究していた)と評されるが、実戦では「武蔵」はなかなか沈まなかった。

1944年10月24日のレイテ沖海戦で設計の確かさが証明された。
魚雷1発で撃沈される大型艦も有ったが、武蔵の最後は、5時間の戦闘であり両舷に魚雷20発、爆弾・至近弾合わせて35発(直撃弾10発)を受けた。
5時間の激闘は結果、僚艦を戦域から脱出させることに貢献した。

武蔵をなかなか沈められなかった攻撃側の米海軍は反省して大和攻撃の際は片舷に攻撃を集中させた。

艦隊決戦思想
大和型戦艦が建造され始めた頃、欧米列強海軍も大砲(大鑑巨砲)での撃ち合いを想定していました。
日本海軍だけが時代遅れのように評価する歴史音痴もいますが、それは間違っています。
大和型が誇る世界最大の主砲は、1分間に2発の砲弾発射が可能で、飛距離は42km(アイオワ級は38km)とアウトレンジで戦艦同士の撃ち合いを想定していましたが、日本海軍自らが証明してしまった航空優勢により、温存されてしまい艦隊決戦では活躍しなかった。
滅多に出撃しないことから「ヤマトホテル」「武蔵屋旅館」と揶揄される。
トラック環礁に停泊する戦艦大和を訪問した陸軍軍人が「海軍さん、これ本当に動くんですか?」と皮肉交じりの質問したという。
実際、巨大な冷凍冷蔵庫が完備されており豪華な料理や菓子、ラムネやアイスクリームなどが提供され、艦内にはエレベーター(弾薬運搬と将校・士官用)も備わっていた。
熱帯地域でも弾薬庫はダイキンのクーラーで強烈に冷房されていた。
司令長官の食事には海軍楽団の演奏がついたという。演奏は艦内に流れた
将校の食事は、朝は旅館の朝食風、昼は洋食フルコース、夜は和御膳が提供されていた。

1937年 平賀の栄光
 6月 勲一等瑞宝章
 8月 従三位
1943年2月17日午後7時55分、東京帝国大学医学部附属病院で嚥下性肺炎により64歳にて死去。同日、依勲功特授男爵・旭日大綬章
同年2月23日、東京帝国大学安田講堂にて大学葬を挙行した。
東大総長現職のまま死に、大学葬まで執り行われたのは平賀のみである。

宮間めさの『テイコク立体』

多くの尊い命が失われた戦争でした。
南無阿弥陀仏


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