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紫電改と鶉野飛行場跡

1918年(大正7年): 川西清兵衛と中島知久平(中島飛行機創業者)が共同出資して、日本飛行機製作所設立。
1919年(大正8年): 11月、川西が中島に日本飛行機株の引き取りを求め、中島が応じる。
川西は日本飛行機製作所から手を引く。

<中略>

川西飛行機といえば大艇ですね。

https://www.youtube.com/watch?v=O5bWhEpfMlc

帝国海軍 川西 二式飛行艇

遺伝子を受け継ぐ

海上自衛隊 US-2

鶉野⾶⾏場跡は、第⼆次世界⼤戦時、戦局が悪化しはじめた頃、パイロットを養成するために設置された旧⽇本海軍の練習航空隊の飛行場跡です。
正式名称は「姫路海軍航空隊」であり、地元では鶉野⾶⾏場と呼ばれています。

昭和18年末頃に、川⻄航空機姫路製作所鶉野⼯場が設けられ、終戦までに、「紫電」「紫電改」など 500機余りの戦闘機が組み⽴てられ、この飛行場で試験飛行が行われました。

水上機メーカーから陸上運用戦闘機へ「紫電」「紫電改」
1942年(昭和17年)4月15日に「仮称一号局地戦闘機」として海軍の試作許可を受けた。
1942年(昭和17年)12月27日に試作一号機が完成し、12月31日に伊丹飛行場(現在の大阪国際空港)で初飛行を行ったが、搭載されたエンジンの不調に悩まされることとなる。
川西試作「紫電」のエンジンは中島飛行機の「誉」が搭載されていたが不調続きだった。
試作機は、問題未解決のまま1943年(昭和18年)7月24日に軍に領収され、8月10日に「紫電一一型」として量産が命じられた。その形は米軍のF4Fに酷似していた(二〇一空搭乗員だった笠井智一)といい、三四一空飛行隊長だった岩本邦雄(日本のエースパイロット)は、紫電は米軍機F6Fには手も足も出なかったという。

紫電の試作機が飛行してから5日後の1943年(昭和18年)1月5日には、中翼の紫電を低翼化した「仮称一号局地戦闘機兵装強化第三案」の設計に着手した。
海軍は川西の計画を承認し、3月15日、正式に「仮称一号局地戦闘機改 N1K2-J」の試作を指示した。
部品点数を紫電一一型の2/3に削減して、量産性を大幅に高めていた。
12月31日、紫電よりも実用性を高めた試作一号機が完成した。

初期欠陥は順次改修され、実戦に配備された紫電、紫電改において故障は皆無であった。

紫電(N1K1-J)の二一型以降が「紫電改」と呼称される。

白鷺隊
昭和20年2月、姫路海軍航空隊 神風特別攻撃隊「⽩鷺隊」が、鶉野飛行場から待機基地である大分県宇佐へ、さらに出撃基地である鹿児島県串良へ飛び立ち、沖縄での作戦で63名の尊い命が失われました。

令和4年4月にオープンした加西市地域活性化拠点施設「soraかさい」をはじめ、周辺に数多く残る戦争遺跡群を「鶉野フィールドミュージアム」として、戦争の歴史を伝え残し、平和の学びの場として活用を図っています。

展示
川西5128号機と川西5312号機はアメリカでレストアされ動態展示されている。

日本国内では1978年(昭和53年)に愛媛県の久良湾から引き揚げられた機体が南予レクリエーション都市内、紫電改展示館で保存されている。

実物大模型が兵庫県加西市鶉野(うずらの)町にある鶉野飛行場資料館(旧日本軍鶉野飛行場跡地)で展示されている。

海軍の搭乗員使い捨てから転換し、厚さ20mmの防弾ガラスが備わった。
三菱製 零戦の弱点であった防弾装備の欠如に関し、本機では、主翼や胴体内に搭載された燃料タンクは全て防弾タンク(外装式防漏タンク)であり、更に自動消火装置を装備して改善された。
操縦席後方の防弾板は計画のみで、実際には未装備(木の板)だったとされている。

試製紫電改二(N1K3-A)
紫電改のテストパイロットをつとめて、進水したばかりの空母「信濃」に着艦テストした山本重久は、紫電では信頼性が低かった自動空戦フラップだが紫電改では作動確実とし、
1945年(昭和20年)2月17日における紫電改での実戦でも有効に活用して米軍機を撃墜している。

仮称一号局地戦闘機改/試製紫電改/紫電二一型(N1K2-J)
機体はF6Fと似ていた。似すぎて敵機と間違えられた

紫電改の試作時における最高速度は335ノット(620.4 km/h)
計器速度796.4km/hを記録し、機体が零戦より頑丈であることを証明した。

山本重久テストパイロットは、横旋回では零戦に苦戦、縦旋回戦闘では零戦に対し断然優位、零戦2機を相手にしても互角に戦え、加速性能・急降下性能ふくめ零戦より優っていたと評価している。

日本海軍は「改造ノ効果顕著ナリ」と判定し、4月4日に全力生産を指示する。
1944年度中に67機が製造された。
1945年1月「紫電改」は正式採用された。紫電二一甲型(N1K2-Ja)100機量産

主な配備先の三四三空を始めとした部隊では零戦に代わる次世代『制空戦闘機』として運用されていく事になる。
1944年(昭和19年)12月10日、速水経康大尉が搭乗する紫電改が、紫電6機(笠井智一ら)と共に、F-13(B-29の写真偵察型)の迎撃に出撃した。
これが紫電改の初陣とされる。

1945年3月20日、戦艦「大和」が哨戒飛行中の紫電改(笠井智一搭乗機)を誤射した。
陸軍機も紫電改を誤射することがあった。
同士討ちを避けるため、知覧町の陸軍基地に零戦五二型、紫電一一型、紫電改が飛来して陸軍パイロットに実機を見せた。
笠井は疾風(四式戦)4機に空戦を挑まれ、交戦直前で陸軍機側が気付いたという。
8月12日にも友軍地上砲火で3機が被弾、不時着している。

1942年(昭和17年)7月 姫路製作所の操業を開始。
1943年(昭和18年): 水上偵察機『紫雲』、水上戦闘機『強風』、局地戦闘機『紫電』が海軍に制式採用。
1944年(昭和19年): 夜間戦闘機『極光』が海軍に制式採用。
1945年(昭和20年)
 3月 社名を神武秋津社に変更。
 4月 局地戦闘機『紫電改』が海軍に制式採用。
 7月 3製作所全てが海軍直営となる。甲南製作所、鳴尾製作所、姫路製作所
 8月 終戦と同時にすべての航空機の製造を終了。鳴尾製作所が米軍に接収される。
1946年(昭和21年): 原動機付自転車『ポインター』、三輪自動車『アキツ号』の製造を開始。
1947年(昭和22年): 社名を明和興業に変更。
1949年(昭和24年)
11月 明和興業、自動車製造部門の明和自動車工業(現・ダイハツ工業)と汎用機器部門の新明和興業に分割。

新明和工業株式会社
兵庫県宝塚市に本社を置く

本社・宝塚地区は、川西航空機時代の宝塚製作所の敷地を利用している。
航空機事業部の主力拠点である甲南工場は、川西航空機甲南製作所以来の伝統を持つ。
残念ながら姫路製作所(川西市)は滑走路を含めて再利用されなかった。

朝鮮戦争をきっかけに航空産業が解禁となり、航空機製造への再参入を果たす。
民間輸送用プロペラ機YS-11の生産分担に参加。
海上自衛隊向けの飛行艇で完成機メーカーとして完全復活。
救難飛行艇「US-1」の成功から現在は「US-2」を製造している。

海外メーカーからも部品要求
ボーイング767、777、エアバスA380、A330、A340の部品を製造する。
2014年と15年には、ボーイング・サプライヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞する。

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