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一向宗

我が家は浄土真宗西本願寺派一向宗の檀家でした
両親ともに亡くなり、信心など考えたこともなかった私が
ご先祖の信仰を考え始めた。

一向宗って何と生前の母親に尋ねたら、親鸞聖人のお弟子さんが興した宗派というような説明だった記憶がある。
葬儀の後に住職に「一向宗」と「正信偈」の意味を聞いたが、あまり的確な回答は得られなかった。

念仏を唱えてもお経は唱えない浄土真宗?

「正信偈」(しょうしんげ)は、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人(1173~1263)が約700年前に作った偈で、正式には「正信念仏偈」と呼ばれます。

法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを弟子である親鸞が継承し展開さ
親鸞の没後に、その門弟たちが教団として発展させたのが俗称「一向宗」。
真宗10派のうち本願寺派が「浄土真宗」、他9派が「真宗」を公称とする。

真宗では、和讃とともに仏前で読まれ、朝夕の勤行などで広く誦せられます。真宗大谷派

浄土真宗の朝晩のおつとめで拝読することは、約500年前、親鸞聖人の教えを最も正確に、最も多くの人に伝えられた浄土真宗の中興・蓮如上人が決められたのです。
決して葬儀や法事のために作られた念仏では有りません。浄土真宗本願寺派

「偈」は「うた」を意味し、「正信偈」は「正しい信心のうた」を意味します。
7文字を一句として120句60行で構成されており、阿弥陀仏念仏を正信することや七高僧(竜樹・世親・曇鸞・道綽・善導・源信・源空)をたたえた賛歌で、阿弥陀仏の本願への信心と,念仏こそが往生の正因であることを強調している。

「正信偈」は親鸞聖人の書かれたものなのでお経ではありません。
お経とは、お釈迦さまの教えを書かれたものだけを指します。

般若心経は唱えないとは?

「般若心経」は、自らの力によって煩悩を断ち切ろうと教える教えです。(自力)
唱えやすくて覚えやすいという特徴がある。写経にも向いている。

一方、「正信偈」は、阿弥陀如来のお力に一切のはからいを捨てておまかせし、それによって救われたことのよろこび(他力)が説かれたものです。

機法一体
他力の教義を表す要語
機とは衆生の信心(=南無)
法とはその衆生を救う阿弥陀仏の本願力(=阿弥陀仏)
機法が一体不離となって「南無阿弥陀仏」となっているとする解釈。

般若心経を読む宗派には、真言宗・天台宗・曹洞宗・浄土宗などがあげられます。
般若心経を読まない宗派は浄土真宗や日蓮宗です。
浄土真宗は自らの気づきではなく、阿弥陀さまの導きによって悟りの境地に至るとされる「他力本願(たりきほんがん)」を教えているためです。

浄土信仰
本当の幸せになれる仏教の真髄、どんな人にも絶対の幸福の世界
出家して厳しい修行をしなくても、男も女も、善人も悪人でも差別なく、煩悩あるがままで救われる不思議な世界です。

人間は、生きるために食べ、食べるために働いているのですが、
一日、生きたということは、逆に一日、死に近づいたということです。
後悔ない幸せな人生を送れたのでしょうか?

教行信証(きょうぎょうしんしょう)
難思の弘誓(なんしのぐぜい)は難度海(なんどかい)を度する大船
 人生には、苦しみの波が次から次へとやってくるので、人生を
 渡るのが苦しい(難度が高い)海に例えて「難度海」といわれています。
 お釈迦さまの先生である阿弥陀仏がされたお約束「すべての人を必ず絶対の幸福に救う」

29歳で絶対の幸せになられた親鸞聖人自身の生きる意味の告白であり、すべての人に親鸞と同じ心(幸せ)になってもらいたいという目的で「正信偈」を書いたと言われています。

現在の浄土真宗は、葬式法事仏教となり、教えはほとんど説かれなくなってしまった。
僧侶でも学者でも「正信念仏偈」は、論文・解説書を読んでも、真意はよく分からない念仏です。

僧侶が格好良く唱えられても意味が分からなくてはそれこそ無意味
僧侶が「正信念仏偈」の意味がわかっていた時代には日本全国に広まった浄土真宗も今は門徒が減る一方。
ただ、一向宗の他力本願、墓も位牌も不要で、何もしなくて良い教えは現代人には好都合かも知れない。

ちゃんと意味がわかっている僧侶と出会えると幸運です。
今の時代なら仏教マニアな僧侶、謂わば専門家なのでよく勉強されている。

https://www.youtube.com/watch?v=34-Dq5JIhsE

『正信偈』 を味わう(現代語+読経) 


阿弥陀仏は、みずからの名号を称える者を浄土に往生せしめると本願に誓い、衆生の積むべき往生行の功徳のすべてを代って完成し、これを名号(南無阿弥陀仏)に収めて衆生に回向している。

中国浄土教の僧侶 善導は、「南無」の二字と「阿弥陀仏」の四字、合わせて六字に関する釈義(六字釈)で明らかにしている。
善導の書を見た日本の浄土宗の開祖法然は、南無阿弥陀仏と称え、阿弥陀仏に「どうか、私を救って下さいと」願う事で「阿弥陀仏に極楽浄土へ導かれる」と説いたが、
法然の弟子であった親鸞は、これから「南無阿弥陀仏」は衆生が浄土に往生する因であるから、名号のいわれである「まかせなさい 必ず救うぞという仏の呼び声」を聞信すべきであるという、師法然の解釈に付け加えた。
親鸞は「阿弥陀仏」を本尊とし、名号は六字のほかに九字(南無不可思議光如来)、十字(帰命尽十方無碍光如来)の名号を書いている。
南無阿弥陀仏は声に出して、耳で戴くほとけ様でもある。

帰命(きみょう)無量寿(むりょうじゅ)如来 南無不可思議光(なもふかしぎこう)
限りない命の阿弥陀如来にお任せし、思いはかることのできない光の阿弥陀如来に帰依(きえ。インドのサンスクリット語でナマス=感謝し服従)したてまつる。という現代語訳もあります。
南無(なも)阿弥陀仏とは、「阿弥陀仏に我が身をまかせる」という意味。
不可思議光は、サンスクリット語のアミターバで無限の光を意味する。如来の梵名「アミターバ」

https://www.youtube.com/watch?v=XO2yy3W89_w

『浄土三部経』を味わう (現代語+読経)


梵名とは、サンスクリット語を書き表す際に用いた文字である梵字(ぼんじ)のことです。

梵語(ぼんご)は、中国や日本や韓国やベトナムなど漢字文化圏でのサンスクリットの異称です。
サンスクリット語は、梵天(ブラフマー神)によってつくられたという伝承があることから、「梵」語という言葉があてられました。

梵字は古代インドで誕生し、仏教と共にアジアに広まりました。
中国では、仏教が伝わった際にサンスクリット語を聖語、梵語と呼ぶようになりました。梵という漢字は「清浄」という意味があります。

日本には、仏教の経典を書くのに使われた悉曇文字(しったんもじ)として、仏教の伝播にともなって伝えられました。

現在、中国やインドで「梵字(ぼんじ)」は廃れ、主に日本だけで使われています。
日本の梵字は、古代インドの言葉が形を変えて日本に伝来した文字。
浄土真宗では梵字は使わない。

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