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桃山文化

桃山文化とは
織田信長と豊臣秀吉によって天下統一事業が進められた安土桃山時代(1582~1603年)の日本の文化です。
桃山文化の特徴は、「豪華絢爛」の一言に尽きます。
それまでの日本にはなかった、華やかさを持つ建築・絵画・踊り・浄瑠璃・三味線などが誕生しました。

①織 田 信 長

 い. 統一事業
桶狭間の戦い(1560年)尾張に攻め込んだ今川義元を返り討ちで滅ぼす(信長27歳)
徳川家康が今川から独立し清洲同盟した
上洛(1568)信長が足利義昭を奉じて京都の東寺に入った。
足利義昭(室町幕府最後の将軍)を京都から追放(1573年)室町幕府滅亡(40歳)
延暦寺の焼き討ち(1571)浅井長政と朝倉義景を囲い続けた延暦寺に激怒
堺の自治を奪う(1568)堺の有力商人「会合衆」に軍用金2万貫要求
石山本願寺を攻める(1570-1580)一向一揆の本拠地
長篠の戦い(1575年)織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍の戦い。
 援軍を送ろうとしない信長に家康は降伏したのち武田の先鋒となり織田に攻め込むと脅した。
 家康の脅しに屈し清須同盟を守って信長は自ら出陣した。
本能寺の変(1582年)明智光秀(家臣筆頭)の軍勢に攻められて信長は自害したとみられる

 ろ. 政策
安土城の築城(天下布武の拠点)
楽市・楽座(市での税の免除・座の特権の廃止。1577)
関銭(関所の通行税)の廃止

②豊 臣 秀 吉

 い. 統一事業
大阪城(統一の拠点)の築城
関白に就任(1585)朝廷の権威を利用
北条氏(後北条氏)を滅ぼし全国統一(1590年)

 ろ. 政策
壱. 太閤検地(1582年~)
全国規模での検地
田畑の面積・収穫高・耕作者を検地帳に記入
農民への支配を整え、年貢の取り立てを確実にする
石高制  
長さ・面積などの単位を統一

弐. 刀狩り(1588年)
農村からの武器の一掃 一揆対策
身分統制令(兵農分離)武家・農民・町人

参. 朝鮮出兵
文禄の役(1592~3年)・慶長の役(1596~7年)
 加藤清正らの軍は中国北東部まで攻め上がる
 蔚山(ウルサン)籠城戦で奮闘する
李舜臣の水軍や明の援軍により苦戦、秀吉の死で撤退
 加藤清正・黒田長政・福島正則らは朝鮮では数々の武功を挙げたが、
 石田三成に冷遇され、関ヶ原の合戦では東軍につく
 東軍勝利、清正は肥後54万石を得て熊本藩の藩祖となり熊本城を築く。
 黒田家は徳川家と同盟。小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りの工作をした。
 長政は一番の功労者として子々孫々まで罪を免除するというお墨付き、筑前52万石を得る。長政は福岡藩の初代藩主となり、父である勘兵衛(如水)と共に福岡城を築城する。(筑前守)
 長政は商人・大賀宗九に対し家康から海外貿易を行うための朱印状を受けさ莫大な富を得る。
 嫡男の忠之と共に上洛し、忠之は第2代将軍・徳川秀忠から松平の名字を与えられる。
姫路城で産まれたとされる黒田官兵衛孝高は秀吉の軍師として天下取りを完成させた。姫路周辺は毛利方に付く者が大半であったが、広峯神社の情報網を持つ黒田家は織田方に付いて頭角を現した。天下統一が近くなると、官兵衛は頭が良すぎて秀吉に疎まれることも有ったようだ。
姫路から九州へ、黒田官兵衛孝高は如水へ
嫡男の長政は江戸時代の大大名となった。
長政も父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。

③桃山文化

特色:豪華で雄大、仏教色は薄く、南蛮文化を取り入れた文化
姫路城(象徴的建造物・秀吉時代の姫路城)先代の城は現存しない
障壁画(ふすま絵)

狩野永徳『唐獅子図屏風』

狩野永徳『唐獅子図屏風』・狩野山楽
千利休(佗茶。陶器の鑑定)
出雲阿国(女性芸能者)ややこ踊りを基にして歌舞伎踊りを創始

歌舞伎踊り

一銭でも盗んだ者を斬罪の厳罰に処す「一銭切」
兵農分離を行い、足軽に俸禄をもって経済的報酬を与えていた織田信長、豊臣秀吉などは「乱暴取り」を取り締まり、「一銭切り」といった厳罰にし略奪を取り締まった。治安回復、天下泰平の世つくり

しかし、大阪夏の陣で徳川は乱暴取りを黙認したので、黒田長政は絵に描かせた。(長政が描かせた「大坂夏の陣図屏風」左隻に徳川方の乱暴取りの恐慌状態が描かれている)

大坂夏の陣図屏風 左隻

歌舞伎舞踊「花形・名作舞踊鑑賞会」より『藤娘』

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