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カーリングに追い抜かれた自転車競技

「もう完全に差をあけられたな…」
それが私の感想です。

あなたがカーリングに触れたのは何年前でしょう?

私は16年前のトリノ冬季五輪の時でした。カーリングの解説と言えば小林宏さん。その真剣さと熱量は多くのカーリングファンを作ったことで有名です。ただ熱いだけでなく、カーリングを表層だけではなく、奥深さも同時に教えてくれたからこそ、ぐいぐいとカーリングの面白さにハマった人が現れました。

小林宏さんは日本でのカーリングの普及に力を尽くした方として大変有名な方だと、その後で知りました。小林さんはソチオリンピックのあとの2016年に亡くなり、今北京大会の決勝進出を決めた18日は、なんと小林さんの命日でした。

我らが自転車競技にも、知る人ぞ知る歴史はあり、それを語る人はいたものの、なぜ大きなムーブメントを起こせなかったのか。これを自転車競技原理主義的にみれば、「みな自転車が好きではないんだ。面白さが伝わっていない。あるいは”自転車が文化になっていない”」と言うわけです。つまり、”プレーヤーが少ないからである”というロジックに落ち着くことが多く、そのためJCFは選手登録する人を増やすための努力をしています。まあそれも間違いではありませんが、もっとも大切なことではなさそうですし、カーリングを見れば、そもそもかなり限られた地域でしかプレーされていない(できない)わけで、どこか方向が間違っているのでは?と思ってしまいます。

カーリングはスタジアムスポーツで、かつTV放映しやすい。自転車のロードレースと比較してみれば、そうかも知れません。しかし、カーリングも最初からそうだったわけではないでしょう。また現在も、3月の世界選手権からテスト採用されるルール変更であったり、将来的な視点では第10エンドまでのゲームは長いという意見を交わしていたり、どんどんと”観戦しておもしろい競技”に変える努力がなされています。

自転車ロードレースではカーリング以上にゲームタイムが長いわけですが、それを自転車側からは「その長さこそがロードレースなんだ。短くしてしまったら意味がないし、他の競技になってしまうじゃないか。」と言われて反対されることは、過去に何度も目にしています。

これは欧州でも同じで、数年前にはハンマーシリーズという新しいリーグをUCI主導で始めたものの、なぜかたったの1シーズンでさえ、スケジュール通りに開催しきる前にそのままフェードアウト。確かに初戦の時点でルールに未熟さはあったものの、それはどのスポーツでも同じであって、次戦からでもドンドンより良い形へ、意見を取り入れて変えていけば良かったでしょう。しかし、ハンマーシリーズはもはや”黒歴史化”してしまっているように思いますし、従来からのレーススタイルを是とする人々からは「ほら見ろ失敗したじゃないか」という判を押されてしまったでしょう。

北京冬季五輪により、かなり多くの日本人がカーリングを知り、ルールを理解し、魅力を自分なりに発見しました。それだけではなく、カーリングというゲームの、勝負のうれしさと悔しさを両面ともに体験しました。「次こそはチームミュアヘッドに勝つのだ!」と想いをしたためたでしょう。これにより4年後だけでなく、3月の世界選手権や普段のリーグ戦でも、多くの注目を集めるでしょうし、選手だけではなく観戦する側も4年後を見据えて、想像しながら、物語を見続けるでしょう。つまり、応援や協力をする企業が増えるということでもあるでしょう。

前回までと違い、もぐもぐタイムやルッキズムにより報道や取り上げ方はグッと減り、勝負の質や戦術面を伝えるメディアが圧倒的に増えたことは、カーリングというスポーツが完全に”観戦して楽しいスポーツ”として認識され、定着したことの現れだと感じました。加えて、男子カーリングのパワーとスピード、そして大胆さは、カーリングの魅力をより広く知ってもらえるきっかけになるでしょうし、より多くのファンを惹きつけるだろうと思います。日本カーリング協会によるYoutubeやSNSの積極的な活用はすばらしく、とにかくカーリングに対する愛情を小林さんから引き継いでいるんだと思い、大きな熱意を感じます。

自転車競技はこれで完全にカーリングに対して、大きな差をつけられたと感じました。もちろん、この2つだけを2項対立化させているわけではなく、あくまでも自転車競技の楽しさを知っている側として、それを知ってほしい側として、悔しさを感じたともいうことです。

「自転車競技はヨーロッパのものである」と、こう言えば言うほど、閉塞感に包まれてはいませんか?閉ざされてはいませんか?”本場”と言い続けられるほど、ヨーロッパで経済的に成功しているでしょうか?

ただ一つ、ツール・ド・フランスだけに頼っていいのでしょうか。また頼れるほどの存在でしょうか。”世界三大スポーツ”というワードは明確にフィクションだったでしょう。観戦者数と言っても、バカンス中であるから可能な数字であって、ジロやブエルタが大した経済的意味を持っておらず、数年前には消滅しかかったことを忘れてしまってはいけないと思います。

そのグランツールも21日間というあまりに長い大会期間だけに、”一般的に考えて”長過ぎますし、大抵の人は観ていられません。実はこれはヨーロッパでも同じであって、単にその期間だけやっている”祭り”でしかないのです。レース結果をずっと、テレビの前で追いかけている人が何億人もいるわけではなく、「あ、やってるよね〜」という人がいるに過ぎません。「それがお祭りという意味なんだ」と言われれば、確かにとも思いますが、ツールがダメだと言いたいのではなく、その”ある一定の忍耐力のある人しか楽しめない競技性”を維持する合理的なメリットとは何なのかということですし、そのお祭り以外はそのままでいいのかということです。

これを私はおそらく、欧州における自転車に関わる人達の既得権を維持するためだと思っています。メリダがしばらくその世界に関わらず、傍観してタイミングを計っていたのもそのせいでしょう。ヨーロッパ、あるいはアメリカもそうですが、日本と比較にならなくらいコネが必要な世界で、階級社会の陰もありますから、まったくの”素人”がたとえ実力を持っていたとしても、その世界に食い入っていくことには大変な困難を伴います。バカにされ、蔑まれ、追い出されます。人種差別もされるでしょう。その結果として、それに対抗するために、自分自身もが間違った方法で戦いを挑んだのがランス・アームストロングだろうと思います。もちろん、彼を被害者だから仕方ないとするわけではなく、そういう環境があったということを言いたいだけです。

そういった大変に保守的な競技性、環境やナショナリズムについて、”これが正しいんだ=本場なんだ”としか伝えてこなかったことにも、日本国内で言えば、全く議論が進まない原因だろうと思っています。かつて、日本に競技用自転車を持ち込んだ世代やその人たちが言うことを今も肯定しかせず、できず、まして、ツールに対して、あるいは欧州の自転車競技に対して異論を言おうものなら、敵として認識されたり、まったく盛り上げるつもりがないのも全体を知った上で俯瞰していれば気づくことでしょう。

自転車の場合、競技で使用する機材を生産するメーカーがあまりに多いのも、私はそういった既得権の維持が少なからず関わっているのだろうと思っています。予算規模が小さいので複数チームに供給できるメーカーが少ない、あるいはそもそもそのくらいの経済規模だからであるということは言えるでしょうが、自転車競技ではルール上、いくつものチームに機材を供給してはいけないというルールはなく、またある国の中でしか流通していないような小さなメーカーが、大きなメーカーに吸収されてなくなることがあまりに少ないのも気になります。メリダやジャイアントやスペシャライズドやトレックの規模であれば、ロードレースという一つのカテゴリーを制圧することも十分に可能でしょう。実際、他のスポーツにおいて、これほどまでに使用機材のメーカーがバラバラなものは、私が思いつく限りではありません。

さて、自転車競技、特にロードレースはこの先も、欧州の中の閉ざされたスポーツであり続けるのでしょうか。私個人は、きっとそのままだろうと思っていますし、メリダやジャイアントですらその扉を開けるつもりは、壁を壊すつもりはないのだろうと思っていますから、この先の未来に自転車競技において、今回のカーリングのごとく、みんなで熱狂し、その思いを共有する機会はたいへん訪れにくいだろうと思っています。「メダルを取ったからだ!自転車は結果を残してないんだ!」とおっしゃる方もいるのだろうと思いますが、私はそれは違うと思っています。大事だけど、それがキーではない。

これは大変に寂しいことで、悲しいことであって、自転車競技が好きな私としては、もっと多くの人と一緒に自転車競技を楽しめる時代が来るのを望んでいます。また、その鍵は日本国内のリーグにこそあると思っていますが、残念ながらその道にもまた、海路が拓けたという兆候は見えないままなのです。

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