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あの街、この街

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各界でご活躍されている方々に、“忘れがたい街”の思い出を綴っていただくエッセイです。
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記事一覧

常連客として暮らすー那覇の町で|宇田智子(古書店店主)

 69年前の『琉球新報』の夕刊に「あの町この街」というコラムが連載されていたのをたまたま知って、那覇の泉崎にある沖縄県立図書館に行った。  ぶあつい縮刷版を繰る。連載は1955年12月1日から25日まで。初回のリード文は次のように書きだされている。  「“戦後十年”という唄い文句も余すところ三十日、十一年目を迎えようとする今年の師走になって“あの町、この街”が見ちがえるようになつた。きたない路地も、田ンぼも沼地も、無人の境地も十年後の今日は夢にも思わなかつた街がひよつくり

青い夜があった|曽我部恵一(シンガーソングライター)

 2014年に「bluest blues」という曲を出した時、奥日光でミュージックビデオの撮影をした。  奴隷として虐げられた黒人たちが自分たちの悲哀を歌ったのがブルースという音楽で、”bluest blues”という言葉があるのかどうか知らないが、ぼくも当時の自分の落ち込んだ気持ちを表現したくて「いちばんブルーなブルース」というつもりでタイトルにした。  妻と別居してまだ日が浅い頃だった。子供たち3人はぼくと残った。その時期は何をしても失われた家族の像が亡霊のようにぼく

踏みたいアスファルト|真輝志(お笑い芸人)

インバウンドの権化のようなしゃぶしゃぶ屋で働いていた。関西国際空港行きのバスターミナルが近いため、観光客がメインターゲットのバイト先。一度インドネシアの女性客から現地の言葉で話しかけられ、わからないなりにYESを連発していると、ツアーガイドが飛んで来て「本当に結婚するんですか?」と尋ねられ驚いた。インドネシアのテンポ感を舐めて接客すると家庭を持つことになる。それなりに忙しい店で体力を奪われたが、生活のためにも最低限のお金は稼ぐ必要があった。 実家を出てから初めて住んだ町、大

おとなりさんは100年以上前からおとなりさん、京のまちに生まれて|大西里枝(扇子屋女将)

京都市郊外に将軍塚という小高い丘がある。市内が一望できる夜景スポットとして、地元の若者が訪れる場所だ。京都には百万ドルの夜景も、高層ビルもない。山々に切り取られたちいさな窪みに、人々の暮らしの灯だけが揺れている。私は、百年以上続く京扇子製造所のひとり娘として生まれ、家業を継ぎ、このまちで商売をしている。この夜景を見るたびに、このまちの狭さを思い知らされる。 京都市の中心部は、住居がぎゅっと密集している。むかしながらの京町家が並ぶこの場所では家どうしの塀が隙間なく、みっちりと

忍野村の「左岸の花」|八代健志(人形アニメーション監督)

コマ撮りアニメーションを作っています。人形などを少しづつ動かしながら写真を撮ってゆき、それを連続して再生することで動いているように見せるのがコマ撮りアニメーション。ストップモーションアニメーションとも呼びます。1秒動かすためには12から24コマの撮影が必要。根気がいる作業ですが、しばらく頑張って撮ったところで再生して、人形が動く様子を初めて見る瞬間は格別。何年続けていても、この瞬間の喜びはたまりません。 昨年の春のこと。ある作品で、人形といっしょに野の花が咲く様子を撮ること

聖地在住|穂村 弘(歌人)

 吉祥寺に住むのが夢だった。憧れの漫画家である大島弓子、楳図かずお、諸星大二郎といった人々の地元であり、作品の舞台にもなっているからだ。一昨年、その吉祥寺にとうとう転居してきた。巷で云うところの聖地巡礼ならぬ聖地在住が実現して嬉しい。現実の吉祥寺もいい街だが、聖地としてのここは私にとっては夢の世界なのだ。  大島弓子の代表作『綿の国星』の中に、こんなフレーズが出てくる。  「昼荻」「痴気情事」「夜鷹」とつづく、この沿線の延長線上に……  半世紀近く前に初めて本作を読んだ

国境の地で、文化の境界を覗く|今和泉隆行(空想地図作家)

 2018年5月にウラジオストクから海沿いを南下し、中国を目指す旅の途中で寄った町、スラヴャンカ。このあたりは東京からの距離が釜山と同じくらいで、沖縄よりは近い。ウラジオストクまでは成田空港から直行便で2時間ほどで、飛行機に乗れば台湾よりも近く感じる。乗ってしまえば近いのだが、ロシア大使館でビザを取り、飛行機や宿を予約するまでは、遠く感じていた。行ったことがある人は少なく、行けるのか分からない印象があったからだ。それから国際情勢が変わり、もしあのとき行っていなかったら、私の中

愛する五反田を離れるにあたって|岡田悠(ライター兼会社員)

引っ越しが好きだ。かなり好き。世のなか面白い街がたくさんあって、東京だけでも数えきれない。ふと降りた駅前が魅力的だったら、「よし、住もう」と思う。そして数ヶ月後に引っ越してしまう。そんな生活を続けてきた。すべての街に住むためには、人生はあまりに短い。 「住む街を変えれば、人生が変わる」みたいなことをたまに聞くが、その理論でいけば、僕の人生は波瀾万丈だ。 ただ引っ越し好きの僕でも、五反田という街だけは別だった。なんと8年間も住んでしまった。厳密には五反田エリア内で何度か引っ

幸せな時間が詰まった萩の街|井上希美(編集者、元俳優)

日本海に面した萩の街。 祖母の住む山口県北部のこの街に、物心つく前から夏がくるたび訪れた。 自宅のある神戸から、両親と姉と愛犬とともに向かう車での長旅。車内では両親の好きなアーティストの曲が何度もループしていたから、今でもサザンオールスターズやユーミンを聞くと、夏の暑さを伴って旅の記憶がよみがえる。 いくつかの山道を越える長距離移動の心地よい揺れにより大抵は眠ってしまう。目が覚める頃には日本海が迎えてくれていて、それは「今年も萩に来られた」と実感できる瞬間でもあった。

上諏訪に行けば、あの笑顔に会える|吉田重治(kamebooks代表)

年に数回訪れている街がある。何の縁もなかった街。 きっかけは、松本英子さんの漫画『荒呼吸』*。初めて訪れたときは、『荒呼吸』をガイドブックのように持って、上諏訪の街をただただ歩いた。漫画に出てきたサボテンを見かけて思わず手を伸ばしてしまい、棘が指にささって、上諏訪で刺抜きを買うハメになったこともある。 まったく知らない街を知らないまま歩いていた。誰も知らない。誰にも知られていない心地よさを味わいながら。そういえば、当時の諏訪湖には亀の遊覧船があった。亀に乗って、諏訪湖を遊

台湾最果ての地・屏東でたどり着いた幻想的な世界|一青妙(作家・女優)

 ジャングルに迷い込んだのだろうか。そう錯覚させるほど、目の前には、奇妙な樹形が果てしなく広がっていた。  私がいるのは、台湾南部の屏東県・港口にある「港口白榕園」。  白榕と現地で呼ばれるベンジャミンという植物の気根は、曲がりくねり、枝分かれし、毛細血管のように地面を這いつくばっている。彼らは栄養を大地から吸収して太く成長していく。今にも歌やダンスを踊り出しそうな勢いで、まるで宮崎駿の世界のようだ。  高いところまで伸びて絡み合った気根は、大きなゆりかごのように見え、

雨上がりの夜の吉祥寺が好きだ 街路樹に鳴く鳥が見えない|枡野浩一(歌人)

 タイトルは短歌。『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集』より。時々しかほめてくれない歌人の穂村弘さんが、珍しく「情報量が多い」と言ってくれたことのある一首である。僕の著書で最も売れたのは『ショートソング』という、短歌がたくさん出てくる青春小説で、執筆時に実在したカフェ・喫茶店を実名でいくつも登場させた。その多くが今はもうない。  吉祥寺には十年ほど住んでいた。そもそも僕の両親が、「小平」と「吉祥寺」で迷って小平に一軒家を建ててしまったとい

本屋を祖師ヶ谷大蔵に移転した話|和氣正幸(BOOKSHOP TRAVELLER店主)

本屋が好きだ。あたらしい街を訪ねるときには何はともあれ本屋の有無を確認するくらいには好きだ。バスや電車で、あるいは車の助手席で「本」という文字を見かけたら目で追いかけるくらいには好きだ。 そんな気持ちで本屋について書き始めて早11年。5年前には下北沢で本屋を開くようにもなった。そして、2023年4月、祖師ヶ谷大蔵に移転した。 流れた時間が濃すぎて、この地に来てからまだ1年も経っていないというのにもう何年もいるような気がする。しかし実際はまだまだ街では新参者。ペーペーの中の

私を作家へと導いた島|佐々木 良(作家、万葉社代表)

豊島。 多くの人は、トヨシマ、トシマと読むでしょう。しかし、香川県の離島「豊島」は、テシマと読みます。 この豊島に出会ったのは、中学校の時です。家族の仕事で大阪府から香川県に引っ越してきました。中学校の最初の社会科見学が「豊島」だったのです。 当時は、まだ産業廃棄物が山積みされていて、先生に連れられてその現場に降り立った時、 「臭い。こんな臭い島に2度と来るか」 という感情をもったことを今でも鮮明に覚えています。あの嗅覚をえぐるような匂いは本当に忘れられません。