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逗子、海を見ていた前方後円墳とヤマトタケルが駆けた路|新MiUra風土記

この連載「新MiUra風土記」では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第15回は、三浦半島の北西部、鎌倉に隣接する逗子を訪ねます。

鎌倉駅をでた横須賀線の車内は一変して乗客がまばらになり、気分が緩んだ。
逗子駅に近づくと左手にかたの山が迎えてくれて、僕のウェルカムゲートになっている。片っ曽の名は断崖の意味で、切り立つこの山には「孫三郎狐」が棲んでいた伝説がある。
駅のホームに下り立つと変わらぬ清々しい浜風が吹いている。駅前の日差しは白くて晴天のあおさが似つかわしい。
小説「太陽の季節」(石原慎太郎)や「不如帰」(徳冨蘆花)が描いた三浦半島西岸の逗子市は明治から昭和へ、葉山町とともに保養地・別荘別宅地としてのイメージを作り上げた。

前方後円墳の長柄桜山2号墳の東側斜面

その市と町の境界線でぐうぜん発見されたのが2基の前方後円墳。県内最大級の長柄桜山古墳群で記紀神話にあるヤマトタケルの東征路上だという(*1)。古東海道の川岸からその墳丘へきらめく海原を眺めに登ってみよう。

(*1)『古代神奈川の道と交通』田尾誠敏・荒井秀規 著 藤沢市文書館

海遊びの人々は銀座通に向かい、葉山や横須賀へはバスを選ぶ。めざす古墳には駅から史蹟のある田越たごえ川をたどろう。

市役所に寄りそう杜は亀岡かめがおか八幡宮だ。鶴と亀、隣町鎌倉の鶴岡八幡宮を想うが、地形が亀の甲羅似だったことによる、と縁起にはある。参拝すると、本殿の扁額の書はあの東郷平八郎(*2)によるものだった。

(*2)ロシア艦隊を撃退し日露戦争を勝利させた連合艦隊司令長官。逗子に別荘があり東郷橋がいまも残る。逗子は横須賀軍港の後背地で海軍士官の町でもあった。

東郷平八郎書による扁額

京急逗子・葉山駅の線路を越えると田越川だ。逗子はかつて三浦郡田越村。三浦半島の南北稜線の麓から出でる清流には錦鯉やカルガモが泳ぎ、サギが舞っている。

田越川

川岸の脇には「三浦胤義たねよし遺孤いこ碑」がポツリと残る。大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」で訪ねる人もいるのだろう。承久の乱で朝廷軍につき敗死した三浦一族の将。鎌倉方の兄三浦義村により遺子らが処されたとの説だ。

三浦胤義遺孤碑

海に向かって桜並木を進むと白く細い橋が架かっている。ふだんは通行禁止で脇には「徳富蘇峰の碑」が立つ(*3)。

(*3)徳富蘇峰(猪一郎:1863~1957)。明治からの日本の代表的時事ジャーナリストで歴史家。代表的な著書に『近世日本国民史』等。作家徳冨蘆花は弟。

かつて魚楽園があった付近。白い橋が架かる

この一画は蘇峰が「魚楽園」と名づけた別宅だった。現在も曾孫の徳富直子さんが「zushi art gallery(逗子アートギャラリー)」を開いておられる。逗子ゆかりの写真家・森山大道さんの展覧会も企画されてきた。さきの白い橋は徳富家のプライベート橋だったのだ。

六代御前墓

葉山へのバス通りを渡ると、ケヤキの巨木に覆われた「六代御前之墓」に寄った。御前の名だが男性で、平家さいごの嫡流で平高清がここで処刑されたとの伝。三浦半島のあちこちには鎌倉史の血涙の痕を残しているのだ。
田越川の河口に朱色の富士見橋。(表紙写真)この橋は何度も架け替えられていて古くは田越橋の名だった(現在の田越橋は上流にある)。
逗子の地名は諸説あるが辻子ずし説によると、辻は路が交差する要衝。古東海道や浦賀道は西国と東国(房総半島)を結ぶ古道がこの橋を通っていたという(*4)。

(*4)『逗子道の辺百史話』三浦澄子編集 逗子道の辺史話編集室、『地名「逗子」の由来』逗子市立図書館

富士見橋から左岸の住宅地に入ると一帯は「蘆花記念公園」になり、戦前の湘南の残り香がする。スパニッシュ風味の和洋折衷数寄屋造の「旧脇村邸」
(*5)をのぞく。

(*5)昭和9年(1934)竣工。はじめ三井物産藤瀬正次郎ゆかりの邸宅であったが、その後東京大学教授・脇村義太郎氏の邸宅となった。脇村氏没後、現在は逗子市が取得・管理。逗子市景観重要建造物。

旧脇村邸

蘆花と国木田独歩が住いにしていた旅館柳家の跡地には記念碑が立つ。蘆花の明治期ベストセラー悲恋小説「不如帰ほととぎす」の舞台はここ逗子海岸で、この旅館での出来事が執筆のきっかけだった。

旧郷土館への遊歩道

さて山上の古墳に向かおう。蘆花公園内の坂道はきついが、季節ごとの樹木や草花、苔のグラデーションが楽しめる。ちょうど中腹に門扉を開いているのが旧「郷土資料館」(*6)。木造平屋寄棟造の庭のベンチでひと息ついて、昔開館していた頃の眺めのよい展示室を思い出す。地元古墳の発掘品もあったはずだ。

(*6)大正元年(1912)竣工と伝わる。大正6年(1917)より昭和19年(1944)まで徳川家16代当主家達〈いえさと〉別邸。1984年より逗子市郷土資料館として運営されていたが、2020年3月31日をもって閉館。

古墳への登山道

長柄桜山古墳群(*7)への山道はいくつもあるが、僕がこのルートを選ぶのは登山道の一段一段の差が大きくて、心臓負荷テストをするかのようにフィジカルを試すことができるからで、身体と知的好奇心を刺激するいいトレイル路になっている。

(*7)『長柄桜山古墳群 国指定史跡』編集発行:逗子教育委員会、葉山町教育委員会 平成30年(2018)2月

ここは低山ながらいつの季節でも汗をかく。こんなとき頂上から聞こえてくるのが子どもらの歓声。西側の2号墳に着いて呼吸を整えていると、疲れ知らずの保育園児らが土まんじゅうの墳丘の上を駆け回っていた。
長柄桜山古墳群は、長柄は葉山町、桜山は逗子市の域になり、2基の前方後円墳はその境界線上の桜山丘陵で発見された(*8)。地元の考古学愛好家が遊歩中に埴輪の破片を見つけたことに始まる。

(*8)平成11年(1999)、携帯電話のアンテナ建設現場。古墳時代前期後半4世紀末築と考えられている。『長柄桜山古墳群』逗子市教育委員会・葉山町教育委員会 平成28年( 2016)5月

2号墳の前方部から相模湾を眺める

2号墳(全長88メートル)の前方部に立つと眼下には相模湾や江ノ島。富士山や伊豆半島が望める。それは大和政権を望郷させる方角だろう。吹き上げてくる風がたまらなくいい。2号墳の段丘は埴輪に囲われて、葺石ふきいしという拳大の石で飾られていて築造時は陽光で白く反射していたという。それは西からの支配者の威光に見えたろうか。山の頂に盛り土された2号墳をあとにして東へ500メートルの1号墳をめざして尾根道を進む。

尾根道から垣間見える葉山の海

三浦半島らしいやぶ笹の道はアップダウンもわずかで、森林浴歩きが愉しめる。樹々をとおして垣間見える西の海は、逗子湾から葉山の森戸海岸のそれに変わった。やがて東に海峡が眺められる。千葉の房総半島と東京湾だ。1号墳と2号墳は三浦半島の東と西を睥睨へいげいする場所に造られたことを実感できる。

1号墳
保存工事がつづく1号墳

1号墳(全長91.3メートル)は現在大規模な遺構保存工事が続けられて立ち入れないが、こんもりした墳丘に佇むだけで、いまの湘南ビーチから鎌倉時代の逗子葉山を超えて、古代神話の三浦半島にスリップできるのだ。
1号墳からは東京湾側の「葉桜住宅地」に下ると県道24号横須賀逗子線。さきの富士見橋(旧田越橋)から横須賀の田浦、走水はしりみず、観音崎へつながる道。江戸の浦賀道や古東海道でヤマトタケルの東征伝説がこのルートだったといわれてきたのだ(*9)。わずかな時間の濃密な古代へのトレイルだった。

(*9)「季刊マーメイド」8号 逗子市立図書館

文・写真=中川道夫

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。

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