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雨のカーテンの中で 中井治郎(社会学者)

小説家、エッセイスト、画家、音楽家、研究者、俳優、伝統文化の担い手など、各界でご活躍中の多彩な方々を筆者に迎え「思い出の旅」や「旅の楽しさ・すばらしさ」についてご寄稿いただきます。笑いあり、共感あり、旅好き必読のエッセイ連載です。(ひととき2023年2月号「そして旅へ」より)

 旅に出られなかった日々のあいだによく思い出したのは、雨の午後のことだった。雨季の東南アジアの街角で出会うスコールは、こちらの都合などお構いなしにいつでも特別な時間を作り出してくれた。

 ぽつりぽつりと落ちてきたと思ったら、あっという間に人の声もかき消すほどの轟々たる雨音となる。人々は大急ぎで手近な屋根の下へと逃げ込み、まいがするほどだった雑踏の人いきれは一瞬にして洗い流される。水煙が厚く立ち込め人影の消えた通りを、時折、逃げ遅れたバイクタクシーが走り去っていく。カモを待ち構えていた色鮮やかなトゥクトゥクたちも道の端に身を寄せ合ってじっと雨に打たれている。

 慌てて飛び込んだカフェでとりあえず飲み物を注文するが、べつに喉が渇いていたわけではない。冷えたグラスに浮き出る水滴の向こうに、ただぼんやり大粒の雨が打ちつける通りを眺めることになる。ふと店内を見回すと、旅行者もビジネスマンも住民もウェイターも、みんなあきらめたような顔でただぼんやり通りを眺めている。

 こんなふうにスコールの降る街では、それまで別々の時間を生きていた人たちが、そのひとときだけ同じ時間を共有することになる。偶然その場に居合わせた人たちとともに、雨のカーテンに包まれて守られているような不思議な時間だ。

 たとえばシャワーを浴びている最中に仕事のアイデアがふと浮かぶことがある。あのような現象は、身体的な刺激に意識が振り向くことで、いつも頭の中を占めている日々のわずらい事から解放されるからだと聞いたことがある。スコールは雑踏の通りだけでなく、それを眺める自分の中身も洗い流していちど空っぽにしてくれるのだろう。

 それにしても、水煙ですべてが色あせた影のように見えるからだろうか。ノイズをかき消す雨音に包まれて眺める世界は、どこか音のない夢を見ているようでもある。自分の日々の暮らしも、また自分がここにいることも、すべてが遠くて透明なひとごとのように感じられて心が軽く穏やかになる。

 慣れた土地から遠く離れた心細さのまま、雨のカーテンに閉じ込められる時間。旅に出られない日々で思い出していたのは、そんな異国で出会うスコールの時間だった。

 漂泊の詩人・金子光晴。彼は自分の人生はいつもオアシスではなくスコールを待ちわびるものであったと言った。それが去ったあとには、晴れ渡る空の下、なにもかもが洗い直されて新しくなるからだという。

 そういえば僕も日々の暮らしがどこか古ぼけてきたなと思っていた。自分がもう何年も異国への旅に出ていないからかもしれない。僕もこれまでスコールに出会うたび、あの優しい時間のなかで静かに生まれ変わっていたのだろう。

 もう、雨はあがっただろうか。虹はどの空にかかっているだろう。あの懐かしい通りにはやはり水たまりがきらきらと光っているのだろうか。そろそろ新しい旅行鞄を買ってみよう。

文=中井治郎 イラストレーション=駿高泰子

中井治郎(なかい・じろう)
社会学者。1977年、大阪府生まれ。龍谷大学社会学部卒業、同大学院博士課程修了。専攻は観光社会学で、現在は非常勤講師として母校の龍谷大学などで教鞭を執る。著書に『観光は滅びない 99.9%減からの復活が京都からはじまる』(星海社新書)など。

出典:ひととき2023年2月号

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