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福井・北前船と夢の町(南越前町)|北陸新幹線開通記念特集

3月16日、北陸新幹線の金沢~敦賀間の開業で盛り上がる福井県。延伸したエリアは、江戸時代に北前船の「みなと」として大いに栄え、今もその名残や歴史を踏まえた文化が町の隅々に息づいています。「北前」とは日本海の意。本特集記事では、日本海を縦横無尽に駆け抜けた北前船の要港をめぐります。五大船主のひとりと謳われた右近家の足跡を辿り、潮風も穏やかな春、海とともに生きてきた、福井の智恵にふれてみましょう。(ひととき2024年4月号 特集「福井 北前トラベル──。越前港町の記憶を歩く」より)

ひととき2024年4月号

海運と商才と──南越前町

 風を受けていっぱいにふくらんだ白い帆の力で、がっしりとした木組みの船体が海を滑るように進んでいく。「どんぐり船」とも呼ばれるでっぷりした腹の中には、各地の自慢の産物がぎっしりと詰め込まれている。

 江戸時代の半ばから、1897(明治30)年ごろまで、こうした「北前船きたまえぶね」が日本海を数多く行き来した。当時の船絵馬や錦絵には、入港してくる大小の白帆や、帆を下ろして停泊する船がいくつも描かれ、湊のにぎやかなようすが伝わってくる。水軍力抑止のため、大型船建造を禁止した幕府の統制下でも、目いっぱいの規模を確保して荷を積み、独自の商法で巨利を得た北前船を、作家・司馬遼太郎は著作『菜の花の沖』(*1)の中で、「船の王」と書いた。

*1 江戸後期、北前船の廻船業者として、ロシアと通商を行うほどの大商人に成長した高田屋嘉兵衛かへえの生涯を描く歴史小説

大海にロマンを積んで

「北前」の名の由来には、「北廻り船」がなまった、日本海を「北前の海」と呼んだ、などいくつかの説がある。

 船の主な形式は「弁財船べざいせん」と呼ばれる堅牢な和船だ。江戸期は幕府の定めで帆は1本だったが、鋭角の船首で波を切り、逆風でも進める高度な帆走性を備えていた。大きさは500石程度のものから、「千石船」の名の通り、米を1000石(約150トン)積める大型船も少なくなく、最大のものは2400石積だったという。

南越前町の「北前船主の館 右近家」に残る船絵馬。無事の航海を終えたあと、北前船の船頭は感謝を込めて船絵馬を神社に納めた

 進む航路は、蝦夷地(現在の北海道)と大坂を結ぶ「西廻り航路」。人口が急増した江戸に直轄地の出羽(現在の山形県、秋田県)の米を効率よく運ぶため、幕府が商人の河村瑞賢ずいけん[1618–1699](*2)に命じて整備した航路のうちの酒田〜大坂区間と、もともと近江商人が整備していた蝦夷地〜敦賀を結ぶ航路がつながってできた海の道だ。船には、船頭(船長)、おもて(航海長)、知工ちく(経理事務長)、親父(水夫かこ長)のほか、水主数名が乗り込んだ。「板子いたご一枚、下は地獄」。命がけの仕事で、同乗するのはほとんどが身内か同じ地域の出身者だった。

*2 伊勢出身の材木商で、幕命を受けて東北の官米を江戸に回送するための東廻り航路(阿武隈川の河口から江戸へ)、西廻り航路(酒田から下関を通り、大坂・江戸へ)を整備

 北前船の特徴は、物資を輸送する海運にとどまらず、各寄港地で盛んに積み荷の売買「買積かいづみ」を行ったことだ。大坂・瀬戸内地方から日本海方面へ向かうことを「下り」、反対を「のぼり」と呼び、「下り荷」は大坂・瀬戸内地方の酒、塩、砂糖、煙草、紙などの雑貨、小浜・敦賀の縄、むしろ、新潟・酒田の米など、「上り荷」は蝦夷地のにしん、昆布などの海産物を扱う。

北前船の主な寄港地
北前船は蝦夷地(北海道)から大坂まで、各地の名産品を買い付けて別の場所で売り、積み荷を捌きながら、各地へ寄港した

 産地で安く仕入れた品物を遠隔地で、高値で売る。情報が乏しい時代、いち早く需要をつかんだ船は、高い利益を得られる。蝦夷地では米や生活物資は必需品であり、各地で急速に広がった綿花栽培に使う鰊の搾りかすの肥料は飛ぶように売れた。利益の目安は2割が下り、8割が上り。「ひと航海千両」「海の総合商社」と言われた北前船は、海の男たちの夢をかきたてた。

船で身を立てた右近家

 南越前町みなみえちぜんちょう河野こうの地区。ここは北前船の全盛期、多くの船主、船員が暮らした地域だ。「河野北前船主通り」には、歴史的建造物が立ち並ぶ。中でもひときわ豪壮な屋敷が、北前船の「五大船主」のひとつとして栄えた右近家で、現在は資料館「北前船主の館 右近家」として公開されている。

南越前町河野地区にある「河野北前船主通り」は、江戸時代に隆盛を誇った北前船主の邸宅や蔵が並ぶエリア
邸宅のひとつで、当時の船具や右近家の家財を展示する「北前船主の館 右近家」の展望台へ上がれば、外海へとつながる湊のようすが一望できる
「北前船主の館 右近家」は山側に本宅と3棟の内蔵、海側に4棟の外蔵を持つ。2007(平成19)年には、水運の研究がご専門の今上陛下も見え、この客間で河野北前船研究会と懇談した
貴重品を入れて船に積み込む船簞笥には「右近」の文字。中央の「吉」字は右近家10代目権左衛門(幼名・吉太郎)のものであることを示す
和製コンパス。磁針の周囲に方位神(干支)で方角が示されている。緻密な船具を活用した船頭〈せんどう〉の経験こそが、目印のない海を進むための大切な技術であった

 広大な敷地の建物は、高台の西洋館も含め、すべて目の前の越前海岸に向いている。通常、奥まったところにある蔵が一番前(海側)にあるのは、潮風から奥の屋敷を守るためだという。ひんやりとした本宅の中に入ると、吹き抜けの高い天井と囲炉裏がある台所。そこに「幸恵丸」「伊勢丸」などと書かれた大きな船幟ふなのぼりがあった。船幟は船尾で冷たい海風にはためき、船乗りたちを鼓舞した実物だ。堂々とした文字に北前船の誇りと力強さを感じる。

旧右近家住宅 西洋館
1935(昭和10)年、11代目右近権左衛門は、船運で得た利益で西洋風の別荘を高台に建造した。その築造に地元の人々を雇い、職を生み出したという
右近家所蔵「八幡丸」の模型と船幟。「丸」字の点を2画目に付けるのは、早めに商いが「〆」まることを嫌う験担ぎ

 右近家は、まさに時代の波に乗って発展した船主だった。

 同じ通りにある金相寺こんそうじは、右近家初代・権左衛門の実家で、古くから府中(越前市)より馬借ばしゃく街道の峠を越えてこの地に運ばれて来る紙や米を、小さな船で敦賀に運ぶ運送業を営んでいた。江戸後期、7代目、8代目の時代になると、松前藩が治める蝦夷地にいち早く進出した近江商人たちにチャーターされ、「荷所船にどこぶね」として活躍する。やがて蝦夷地の幕府直轄化や江戸商人の進出の影響で近江商人が撤退すると、9代目権左衛門は、北前船主として積極的に商いを広げ、繁栄の基礎を作った。8代目が亡くなった1853(嘉永6)年には、右近家が所有する廻船は3艘、利益が1600両ほどだったが、10年後には廻船11艘、利益は1万2000両余に達している。

「このあたりでは、こどものころから船に乗せて経験を積ませました。商いに欠かせない読み書きを習う寺子屋も3カ所あったそうです。若いときから、家の廻船に乗り込んで、各地の情報や経営を学んだ9代目は、自ら北前船の船頭も務め、多大な利益を手にしました」(「北前船主の館 右近家」でボランティアガイドも務める、河野北前船主通り案内の会会長の千馬せんま仁視ひとみさん)

貴重な船具や、北前船主の心意気を解説してくれた河野北前船主通り案内の会会長の千馬仁視さん

 右近家の店印たなじるしは、2本の斜め線で「一膳箸」を表す。「物を運ぶ」「橋渡し」の意があるという。資料館にはまげを結い、帯刀した9代目の写真パネルがある。小柄で少年のような面差しのこの人が、千石船を操り、ダイナミックな商いに挑んだのだ。なお、この人に育てられ、明治の世を生きた10代目も時代をよく読んだ。電信など情報網の進歩で買積のうまみを失うと、船を西洋帆船、蒸気船へと切り替え、運送業へと転換。同業者の保護育成のため、日本海上保険会社(現在の損害保険ジャパンの礎のひとつ)設立にも尽力している。

文=ペリー荻野
写真=須田卓馬

──この続きは、本誌でお読みになれます。北前船の主な寄港地である敦賀・三国をめぐります。北海道の海産物や東北の米を関西圏へ運ぶための重要な湊であった敦賀では、日本に近代化をもたらしたとも言われる昆布文化について、今も続く和食の礎を学びます。また、東尋坊の近く、坂井市の三国湊では、男たちが船に乗っている間の生活を支えた海女の伝統を受け継ぐ女性たちを訪ねます。色鮮やかなグラビア写真と共に、お楽しみください。

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<目次>
●1章 北前船と夢の町
 海運と商才と ─南越前町
 凪いだ天然の良港 ─敦賀市
●2章 海と生きる町
 雄島の海女 ─坂井市
 福井 北前トラベル─。〔案内図〕

北前船主の館 右近家
福井県南条郡南越前町河野2-15
☎0778-48-2196
[時間]9時~16時 [休日]水曜、12/29~1/3
[料金]大人500円、子供300円
*門前から続く河野北前船主通りを含めたボランティアガイドの解説あり。入館料のほか、1グループ1,000円(1名~9名)、1,500円(10名~)がかかります。3日前までに要予約

出典:ひととき2024年4月号


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