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愛する五反田を離れるにあたって|岡田悠(ライター兼会社員)

各界でご活躍されている方々に、“忘れがたい街”の思い出を綴っていただく連載あの街、この街。第30回は、ライターとしてご活躍されている岡田悠さんです。長年暮らした五反田の街への愛着と、大切な人に向けられた愛情がじんわりと伝わってくる素敵なエッセイです。

引っ越しが好きだ。かなり好き。世のなか面白い街がたくさんあって、東京だけでも数えきれない。ふと降りた駅前が魅力的だったら、「よし、住もう」と思う。そして数ヶ月後に引っ越してしまう。そんな生活を続けてきた。すべての街に住むためには、人生はあまりに短い。

「住む街を変えれば、人生が変わる」みたいなことをたまに聞くが、その理論でいけば、僕の人生は波瀾万丈だ。

ただ引っ越し好きの僕でも、五反田という街だけは別だった。なんと8年間も住んでしまった。厳密には五反田エリア内で何度か引っ越しはしたものの、遠く離れることはできなかった。他の街から誘惑を受けても、いつも五反田に踏みとどまった。五反田の吸引力から、逃れることができなかった。

しかし昨年、いろんな事情が重なって、ようやく五反田から旅立つことになった。だからこの街を、振り返りたいと思う。愛する五反田を、離れるにあたって。

五反田は東京の山手線「五反田駅」を中心とした地域である。駅前の猥雑さには定評があり、特に東口の繁華街には有象無象のお店が立ち並び、通行人と同人数のキャッチがマンツーマンで待ち構えている。

一方でシリコンバレーをもじって「五反田バレー」なんて呼ばれるくらいベンチャー企業が数多く入居していたり、洒落た店もたくさんあったり、その様相は単なる夜の街に留まらない。もちろん飲食店も充実しており、金夜であろうが忘年会シーズンであろうが、必ずどこかの店には入ることができる。

五反田に住み始めたきっかけは、転職した会社が五反田にあったことだ。入社した当時は社員30人くらいのスタートアップで、みんながむしゃらに働いていた。全くの異業種から転職した僕も、その一人だった。そして夜更けに退社した我々を受け止めてくれたのが、五反田の懐の広さであった。

退社したら、まずは空腹を満たすために、立ち食い寿司へ行く。『都々井つつい』という寿司屋がむかし五反田駅の高架下にあって(現在は「五反田ヒルズ」と呼ばれるスナック街に移転した)、深夜まで日本酒を飲みながら、仕事の議論の延長戦を開催した。

あるいは『魚がし日本一』、通称「魚がし」も同じく立ち食い寿司であり、こちらも盤石の旨さを誇る。個人店のみならず、チェーン店も充実しているのが五反田のいいところだ。ちなみに僕はこの店が好きすぎて、魚がしから毎週届くクーポンを3年間記録し、翌週のクーポンを予測できるようになったことがある。

そして人数の読みにくい二次会では、『らがん』という店を活用する。ぱっと見の3倍の人数を収容できる忍者屋敷みたいな飲み屋で、いちど二次会のため社員全員でダメもとで行ってみたら、あっさり入れてびっくりした。刺身の3点盛りを頼むと8点盛りで出てくるなど、常に想像を超えてくるお店である。

そこからサクッと三次会を済ませたいなら、日高屋がいい。五反田の日高屋は店内が異様に明るいから、不要な長居を避けられる。その利便性の高さから、会社ではいつのまにか日高屋のことを「HY」と略して呼ぶようになり、社内チャットでは「HY?(日高屋に行く?の意)」「HY1H?(日高屋に1時間行く?の意)」などの暗号メッセージが飛び交っていた。

そして最後の締めは、駅前のうどん屋『おにやんま』に決まっている。最近はほかの街にもあるみたいだが、やっぱり僕は、五反田のおにやんまが好きだ。

券売機で券を買って、人0.7人くらいしか通れない狭い通路を歩いてカウンターに向き合うと、券を出す前に既にうどんが出ている。どういう仕組みなのかわからないが、古き良き佇まいの裏側で、最新のテクノロジーが稼働しているに違いない。五反田の誇る名店である。

以上が五反田の、とある夜の過ごし方であり、他にも20種類くらいのパターンがある。

もちろん、五反田のすべての店が素晴らしいわけではないから、油断はできない。どれも名前は伏せるが、コースに中華料理が出てこない中華料理屋や、店員がよく客を説教している小料理屋。駅から少し歩いたところには「最悪の店が入れ替わるビル」もあり、あらゆる肉が常に真っ黒に焦げており、高額な請求を課されてしまうから要注意だ。食べログの低レビューを回避するためか、行くたびに屋号が変わっており、それでも怖いもの見たさでたまに入店しては、焦げた肉を噛まずに飲みこんだ。刺激に飢えた時にはおすすめである。

そうやって、いろんな店がごった煮になっているのが五反田という街だ。清濁併せ呑む混沌が妙に心地よくて、うっかり8年間住んでしまった。好きだ五反田。

ではなぜ、僕は五反田から引っ越したのか。こんなに居心地が良くて、こんなに愛した五反田を、なぜ離れたのか。

それは、8年という時間が、僕も会社も変えてしまったからだ。

僕は結婚して子どもができて、1人暮らしから3人暮らしになった。居酒屋より公園にいる時間が増えて、外食する機会もなくなった。

一方で僕の勤める会社は、30人から2000人になった。スタートアップの規模ではなくなった会社は、五反田バレーを離れ、整然としたオフィス街へ移転することになった。

僕も会社も成熟して、ついに五反田を離れる時期がきたのだ。人生のフェーズが変わったというやつである。さようなら、猥雑でエネルギーあふれる街、五反田......







......みたいなストーリーにはしたくない。







「働き盛りが飲んで騒いで、大人になったら卒業する街」として消費するには勿体ない。僕の知る五反田の魅力は、もっと底が知れない。

子どもが生まれてから、たしかに飲み歩くことはなくなった。だが酔っ払った同僚を引きずる代わりに、ベビーカーを引いて街を歩くことが増えた。そしてそのたびに、五反田の新しい側面を見つけたのだ。

たとえば、五反田の名スポット「TOC(東京卸売りセンター)」は地下街のグルメや、でかすぎるユニクロで有名だが、実は屋上こそが至高だ。初めて訪れた人は、誰もがその広さと穏やかさに、ここは本当に五反田なのか?と面食らうことだろう。

コンビニで買ったサンドウィッチを、TOCの屋上で子どもと取り分けて食べることで、時間の流れが0.5倍速になる。

不動前駅の近くにある、静まり返った「氷川神社」もいい。長い石段を、子どもの手を引きながら、少しずつ登っていく。ようやくたどり着いた頂上には、コンパクトな境内があって、手水がちょろりちょろり流れる音だけが、生い茂った木々へと吸い込まれていく。

ほかにも、最近やたらとスタイリッシュになった大崎広小路駅の高架下とか、住宅街を歩いていると突如現れる小さな公園の数々とか。目黒川沿いの、実にピースフルな芝生広場とか。

五反田の「濃さ」を知っているからこそ、そういう何気ない淡い場所が、以前より際立って見えるようになった。五反田のコントラストだ。同じ街でも、何度も噛んでいれば、違う味が現れてくる。

住む街を変えなくても、街の歩き方を変えるだけで、暮らしは変わっていく。

とか言いながら、僕は結局五反田から離れてしまったわけだけど、それでも街から卒業したわけではない。

その証拠に、引っ越したあとも、五反田には定期的に訪れている。具体的には、五反田の歯医者にまだ通っている。神経の治療をして、奮発して高価な差し歯を入れたから、噛み合わせを定期的に確かめる必要があるのだ。ときに歯医者を変えることは、住まいを変えることよりも難しい。

歯医者の帰りには、必ず街を散策する。治療した歯で立ち食い寿司を食べたり、うどんを啜ったりする。繁華街を歩いて、ガポガポ飲んだ夜を思い出したり、小さな公園でブランコを漕いだりする。

そういえばいまの会社に入社した当時、前職と勝手が違いすぎて、もうやることなすこと全然うまくいかなくて、ショックを受けたことがあった。誰かとランチをする気力も湧かなかったから、昼休みに近くの寂れた公園に逃げ込んで、ひとり呆然としながらコンビニのおにぎりを食べたものだ。

先日歯医者の帰りに、あのときの公園へ、何年かぶりに訪れてみた。

西口の飲み屋街の裏路地を抜け、住宅街の細い道を通ると、小さな公園が現れる。ブランコと砂場くらいしかない。やっぱり誰もいない。

でも今の僕は、子どもを連れてきたら、砂場を独り占めできて喜ぶだろうな、とか思う。錆びたブランコも、キィキィと趣があって良いな、とか思う。当時の「寂れた公園」という印象は、微塵も抱かない。そうして気づく。この公園もまた、五反田のコントラストだったのだ、と。

五反田を噛んで、また噛んで。

新しい歯の噛み合わせを確かめるように、異なる五反田の味わいを、これからも噛み締めていきたい。

文・写真=岡田悠

📚岡田悠さんのご著書

0メートルの旅──日常を引き剥がす16の物語

(ダイヤモンド社)

本書の旅の舞台は、16の国と地域。
日本から1600万メートル、
地の果て南極から始まり、
だんだんその距離は近づいて、最後は
「自分の部屋の中」で完結します。

「遠くに行くこと」だけが旅ではない。 
日常の中に非日常を見出し、
予定不調和を愛する心があれば、
いつでも、どこでも、旅はできる。


岡田悠(おかだ・ゆう)
1988年兵庫県生まれ。会社員の傍ら、有給を全部旅行に費やして旅行記を書いたり、『オモコロ』等で役に立たない記事を書いたりしている。著書に『0メートルの旅』(ダイヤモンド社)、『10年間飲みかけの午後の紅茶に別れを告げたい』(河出書房新社)、『1歳の君とバナナへ』(小学館)。Xアカウント:@Yuuuo

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