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石風呂の小宇宙|へうへうとして水を味ふ日記

台湾と日本を行ったり来たりしている文筆家・栖来すみきひかりさんが、日本や台湾のさまざまな「水風景」を紹介する紀行エッセー。海、湖、河川、湧水に温泉から暗渠あんきょまで。今回は山口市に古くから伝わる石風呂を訪ね、時空を超えた旅へと誘います。

連載「へうへうとして水を味ふ日記

「ひかりん、じゃあ徳地とくぢの“ロハス島地しまじ温泉”で待ち合わせね」

友人のM本さんに山口県は山口市徳地エリアに伝わる“石風呂いしぶろ”へ案内してもらうことになった。M本さんがわたしを「ひかりん」と呼ぶのは、高校時代から付き合いのある母校の先輩だからである。高校や大学時代の友人というのは不思議なもので、再会した瞬間から、何十年も昔の関係が瞬間解凍される。高校生同士のような気安さで、待ち合わせ場所に現れたM本さんの車に乗り込み、いざ石風呂めぐりへと出発した。

徳地の里山風景

花崗岩を侵食して約50キロを流れて瀬戸内海にでる「佐波川さばがわ」は山口県第二の大河である。古い神話の時代、ヤマトタケルノミコトの子・仲哀ちゅうあい天皇は、筑紫の橿日かしい宮(現在の福岡市香椎かしい)にて「熊襲討伐に先立って新羅を攻略せよ」との神託を受け、現在の山口県防府市に「沙麼さば県」(※県とは大和朝廷直轄の御料田ごりょうでんのこと)を設置した。佐波川の「佐波」は、かつての「沙麼」が転じたもので、流れが削り取った砂礫しゃれきが堆積してできた沖積ちゅうせき平野は伏流水に富み、防府出身の種田山頭火が詩になんども詠みこんだほどの名水で知られる。

御料田の後、国府が置かれて大和朝廷とのつながりを代々深めてきたこの周防の土地にやってきたのが、高野山の俊乗房しゅんじょうぼう重源ちょうげん上人である。

1180(治承4)年に平清盛の五男・重衡しげひらは奈良の東大寺、興福寺を焼き払い、大仏も焼失した。その罰がくだったのか、清盛は翌年に病死。そして同じ年、後白河法皇によって、俊乗房重源上人は東大寺再建の大勧進だいかんじんとして監督役に任じられる。重源は中国南宋より来日していた鋳工の陳和卿ちんなけいを起用して新たな大仏を鋳造し、大仏殿を復興するための良材を、ここ佐波川上流に求めに来た。

大仏殿の大伽藍を作るに足る巨木を切り出して運ぶのは、それはそれは大事業であったろう。そまに入って木を探し、あいだをつなぐ林道をつくり、川を渡る橋だって架けねばならぬ。木材は佐波川に浮かべて下流まで運ぶが、水量の足りない浅瀬には土手をつくって水をせき止めた。このような数十メートルの石畳水路を“関水せきみず”と呼ぶが、佐波川に沿ってぜんぶで118か所も作られたという。

それだけに、現場は大変な重労働で、人足の中からおおくの怪我人や病人が出た。そこで重源上人は、療養のため熱気浴の施設「石風呂」をこしらえた。徳地には石風呂が計33か所もあるそうだが、なかでも「岸見の石風呂」は国の重要有形民俗文化財に指定され、今は地元の保存会の人たちの手で月に一度は焚かれ、一般公開されている。

今日がちょうどその公開日にあたるというので、徳地の文化と観光のために奮闘している元市役所職員のM本さんに連れられ、分厚いかやぶき屋根をもつ里山の一軒家へやってきた。建物のなかに石風呂はあるが、こんな家のなかで柴木しばきを焚いて燃えたりしないのかしら、と余計な心配をしてしまう。まるで、日本昔話に出てきそうな木造建築である。

参加費を払って受付を済ませ、となりの畳の間で重源さんの像にお礼を申し上げてから、雪国のかまくらのようにこんもりと丸く盛り上がった石室にそろそろと頭を低くして入っていく。中には敷物がしかれ、枕を置いてM本さんとふたり、横たわる。サウナと同じく50~80度ぐらいはあると思うが、思ったよりも熱くない、優しいあたたかさだ。

石室の外観(上)と石室の内部(下)

戸でふさがれた入り口から、外の光がほんのり漏れている。なだらかな球体の天井がプラネタリウムみたいと思っているうちに、ござの下で蒸されたセキショウやヨモギの爽やかな薫りと、いぶされた石の日向のような懐かしい匂いが入り混じり、毛穴から染み込んでゆく。ひたいに汗がすこしずつ滲み、意識がだんだんと遠のく。そうして、子供のころ、お風呂に頭から潜って死んだふりをし、母の反応をじっと待っていたときのことを何故か思いだしていた。

「ひかりちゃん、ひかりちゃん、死なないで」

息絶えたわたしを発見した母は驚き、わたしの身体をぎゅっと抱きしめ大いに嘆き悲しむ。幼いわたしはそんな想像の甘美さにひたったが、当然、息が続かず苦しくなってバシャッっと勢いよく水面に頭を出す、危険なあそびを繰り返していた。

母はそんなわたしの期待など知るはずもなく、呑気に「早くお風呂あがって~」と台所のほうから声をかけてくる。わたしは、がっかりしつつもホッとしたような、さっぱりした気持ちで風呂をでる。手を見ると、生まれたての赤ん坊のようにしわしわと指先が白くふやけている。全身からほかほかと湯気が立ち上る。何か古い薄皮を脱いで新しい自分になったかのようだ。

お風呂、死、再生。

どこか相通じるものがある。入浴とは、生きる苦しみも死への恐れも知らず、愛情で満ちた湯舟をただ泳いでいた母親の胎内へ返る束の間の、再現のようでもある。特別な信仰をもたないわたしが、台湾で暮らすようになって特別にこだわったのが湯舟の有無だった。今も、忙しい日常はシャワーで済ませても、ここ一番には必ず湯舟につかる。こういうとき、じぶんが「日本人だなあ」と感じる。そして、その度に「日本人」ってなんだろう?と思いもする。石風呂を中国大陸で学び、この山口の山奥に伝えた重源上人だって、まさかその後の日本人がこんなにも「お風呂大好き!」になるとは、思いも寄らなかったろう。
 
「岸見の石風呂」をあとにして、M本さんが他の石風呂遺跡をみに連れて行ってくれた。

野谷石風呂のたにのいしぶろ”は、先ほど入浴体験をした「岸見の石風呂」とは異なり、佐波川の支流のそばの巨岩にあいた岩穴を利用したものだ。焼いた石を川の水にひたし、岩穴のなかに敷いて熱気をためた。内側の広さは大人が4人で利用できるぐらいという。入り口には野面石のづらいしが積み上げられ、穴の脇に念仏を唱えてから入浴するための拝石おがみいしがある。石風呂に入るまえ、こうした念仏石に必ずお参りするのも、かつて入浴とは宗教的な行為とみなされていたゆえだろう。鬱蒼とした森にたたずむ苔むした石積みの風呂は、もはやそれ自体が風呂という施設を超越した霊性を備える。

野谷石風呂

そこには、身体によい行為といった以上の「祈り」──身体の犠牲と再生が東大寺再建という大事業につながることを体得する──も、あるいは込められていた。また同時に、労働者の心身の健康に事業主が責任を負うといったような、近代的な福祉の芽生えを感じることもできる。現代日本で流行しているサウナなどの「整う」源流は、こんなところにあったのだ。

余りにも山奥なので、「平家の落人伝説でも残っていそうな場所だねえ」というと、M本さんが嬉しそうに、「それがさ、あるんだよね、落人伝説」と答えた。

30年来の旧友が連れていってくれた、川と風呂をめぐる遥か800年の時空旅行。一日で味わうには、まだまだ時間が足りない。

重源上人が袈裟をかけた伝説のある袈裟岩堂の石風呂

文・イラスト・写真=栖来ひかり

<参考文献>
『防府佐波歴史物語――佐波川周辺今むかし』臼杵華臣/松村春尾/脇運雄/河野正(1982年/瀬戸内物産[有]出版部)

■岸見石風呂保存会
TEL090-5708-1426

■(一財)山口観光コンベンション協会徳地支部
TEL:080-2916-8878
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栖来ひかりさんの関連著書
台湾と山口をつなぐ旅

栖来ひかり
台湾在住の文筆家・道草者。1976年生まれ、山口県出身。京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。台湾に暮らす日日旅の如く新鮮なまなざしを持って、失われていく風景や忘れられた記憶を見つめ、掘り起こし、重層的な台湾の魅力を伝える。著書に『台湾と山口をつなぐ旅』(2017年、西日本出版社)、『時をかける台湾Y字路~記憶のワンダーランドへようこそ』(2019年、図書出版ヘウレーカ)、『日台万華鏡』(2023年、書肆侃侃房)、『台湾りずむ』(2023年、西日本出版社)。

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