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「三浦ガンダーラ」の新世紀巡礼|新MiUra風土記

この連載新MiUra風土記では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第5回は、三浦半島の北部・鷹取山をめぐります。

 はじめに石ありきだった。

 神武寺じんむじ鷹取山たかとりやま。逗子市と横須賀市をまたぐ霊場と聖地。

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鷹取山頂上から、東京湾

 三浦半島の北に位置するこの山稜からは、明治から昭和にかけて、池子石や鷹取石と呼ばれる良質の建築石材が切り出されていた。関東大震災で千葉の房州石ぼうしゅういしや栃木の大谷石おおやいしに代わるまでは。
 
 その切場跡はロッククライミング(岩壁登攀がんぺきとうはん)の絶好の舞台となり、そこはのちに有力登山家を輩出する孵化場となったのだった。

 やがてこの山塊に磨崖仏群の聖地計画が持ち上がり、巨石から弥勒菩薩像などが彫りだされて完成した。

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弥勒菩薩尊像

 僕はこの奇峰を「三浦半島のガンダーラ」と呼んできた。玄奘三蔵がめざした、バーミヤンの石窟があった、あのガンダーラだ。その巡礼路の古刹・神武寺は、源頼朝と北条政子らの篤い信仰を受けていた。

 スタートは京急電鉄の神武寺駅。

 一日の乗降客数は、同社全72駅中の67位(*1)だが、駅には改札口が二つある。その一つには「CFAY IKEGO DETACHMENT JINMUJI STATION」(*2)と記されている。ここからは「米軍池子住宅地区及び海軍補助施設」という訳で、一般の日本人は利用できない。

*1 一日5,086人、逗子線では最下位(一社日本民営鉄道協会2020年)
*2 約3,400人の米国海軍民が在住。CFAY[シーフェイ:Commander, Fleet Activities Yokosuka:米海軍横須賀基地(司令部)]

 池子の米軍施設は敗戦までは日本海軍の弾薬庫で、この敷地内には共同使用の「池子の森自然公園」などがあり、土日休日に限り、別ゲートから市民の立ち入りが可能になっている。

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米海軍池子住宅地(池子フレンドシップデー)

 神武寺への巡礼路は、古道の風情を漂わせるこの駅からの裏参道(池子参道)を薦めたい。池子石の切場の廃墟が見えると、深山幽谷風の登山道だ。わきの池子川のせせらぎの音が心地よい、現代の修験僧が駆けるのにも出会ったことがある。

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池子石切場跡

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尾根道

 海抜83メートル、総門が残る頂きの周囲は「岩隙がんげき植物群落」(*3)という生態系につつまれる。これは渓谷の斜面や切通し、岩肌に生育する独特な植物で、三浦半島の希少な遺産だ。

*3 逗子市指定史跡名勝天然記念物

 神武寺は神之嶽こうのたけといわれ、全山が三浦池子層の凝灰岩でできた山岳信仰の霊場だった。

 神武寺は、奈良時代(724年)に僧の行基が開山し、慈覚大師が天台宗に改宗(857年)した。ふもとには頼朝の父義朝の沼浜邸があったといい、のちの鎌倉初代将軍、頼朝にはゆかりある土地。医王薬師如来が祀られたゆえ、頼朝は政子の安産祈願で神馬を奉納、子の実朝自身も病平癒に参詣した。(*4)

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神武寺楼門

 境内には本堂薬師堂(*5)を中心にあちこちに文化財の案内板があって樹齢400年という怪木奇木を表す「なんじゃもんじゃの木」(*6)が面白い。鷹取山への入山口には「女人禁制」の石碑が時の置き土産のように残っていた。

 *4 『吾妻鏡』
 *5  神奈川県重要文化財
 *6  逗子景勝100選、県景勝50選、県名木100選

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「女人禁制」の碑

 鷹取山は、親不知、子不知という名の峰を頂き、群馬県の妙義山みょうぎさんに似て「湘南妙義」とも呼ばれた。霊峰といっても海抜わずか139メートルだが、山頂の眺めはすばらしく、三浦半島の全方位が見渡せ、登頂の達成感を得られるのだ。

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鷹取山

 太田道灌の鷹狩用の猛禽類の捕獲場だったともいう鷹取山。明治期から石切場にしたのは、里の追浜浦郷おっぱまうらごう村の名主・高橋清光だった。

 鷹取石は加工しやすく、家屋の基礎や塀、護岸や階段、東京湾の砲台場に使用された。関東大震災で採掘をやめた山を入手したのは西武の創始者・堤康次郎つつみやすじろう(1889-1964)で、大規模住宅開発やゴルフ場を計画した(*7)。

*7 『京急沿線の近現代史』(小堀聡著 クロスカルチャー出版)

 垂直な岩壁はやがて戦後日本人ロッククラマーの練成場となり、いっぽう石像仏のメッカを夢見た逗子の実業家・川口満氏と横須賀の彫刻家・藤島茂が二体を創り上げたところで中断する。そして林立する巨石と磨崖仏が、エキゾチックな奇景を残すことになった。

「ここでね、たくさんの人が亡くなっているよ」

 親不知の展望台でひと息ついていると、僕に土地の老人が声をかけてきた。

 彼は僕の無知を諭すかのように、ここは滑落死の名所だと云うのだ。その語りに耳を傾けるうちに冷や汗が吹き出し、カメラを持つ手がすくんだ。

 見わたすと、どの岩肌にもハーケンを穿った無数の穴が残る。クライマーは流行りのボルダリングではなく、天然岩にハンマーを打ち下ろし、ザイルで登攀と懸垂降下をくりかえした。それは傍目にはのんびりとした光景だったが、にわかに眼下の崖が屍の舞台と化すのを見る思いがした。

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鷹取山

 鷹取山は伝説のクライマーを育んだ。新田次郎の小説『銀嶺の人』は実在する女流登山家の成長物語だが、その出発点が鷹取山で、谷川岳へ、やがてマッターホルンを目指すのだ。物語に描かれる、現れると不吉な事故が起こるという、全身黒ずくめの超人的な独自登攀をする「黒いクモ」男を思い出したものだ。(*8)

*8 現在は原則クライミング禁止。詳細は鷹取山安全登山協議会まで。

 追浜駅への下山道で、古代ギリシャの「ミケーネの獅子門」や中国の雲南地方の「石林」に似た光景に出くわす。磨崖仏は高さ8メートル、交脚した弥勒菩薩尊像で、昔訪ねたことがある西域敦煌とんこうの莫高窟275号のそれを模したらしい。衣裳は少し異なるが、山嶺を眺めるお顔はより凛々しく、遠目のまなざしだ。

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弥勒菩薩尊像

 わずか百数十メートルの鷹取山の頂で、一瞬の死を想い、隣合わせの生を考えさせられた。もとより霊山聖地の場所。磨崖仏による聖域化の計画も突飛ではない気がしている。
 
 三浦半島には明も暗もあった。

 それでいて陽光と風が、絶えることのない波音が、“生きているだけで幸いだね”と、遊歩の帰路につく僕の肩を押してくれるかのようだった。

文・写真=中川道夫

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。


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