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【森山大道 特別インタビュー】逗子、ふたりの写真家と『八月の濡れた砂』|新MiUra風土記

この連載「新MiUra風土記」では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第22回は、三浦半島の逗子へ、二人の写真家の足跡を辿ります。

文学記念碑「太陽の季節」が建つ海水浴場に人がもどってきた。北端の磯場には徳冨蘆花の「不如帰ほととぎす」の石碑が立ち背後には披露山ひろやまがせまる逗子湾の変わらぬ名勝だ(*1)。

「不如帰」の碑

(*1)『太陽の季節』は石原慎太郎(1932-2022)の短編小説。第34回芥川賞(1955年度下期)受賞作品。1956年公開の映画(日活)では実弟の石原裕次郎(1934-1987)がデビュー。『不如帰』は徳冨蘆花作の明治の国民的人気小説。芝居、映画化され逗子の名を全国に知らしめた。

長者ヶ崎の食堂にて(2016年1月撮影)

その披露山の山腹に白亜の屋敷が見えるのが故石原慎太郎邸。そして麓の路地にはひとりの写真家が住んでいて、もうひとりの写真家は逗子湾の南端に棲家があった。

逗子の路地

この夏『挑発関係=中平卓馬×森山大道』展が神奈川県立近代美術館 葉山で開かれている。逗子と葉山ゆかりのふたりの写真家はいま日本を代表する写真家として国際的に評価が高い(*2)。もう逗子の代名詞は慎太郎や蘆花ではない時代が来たのかも知れない。

(*2)森山大道 1938年大阪府生れ。写真家。1960年代から一貫してスナップショットを撮り続ける。1964年よりフリー。フランス芸術文化勲章シュヴァリエ章(2018年)、写真のノーベル賞と云われるハッセルブラッド国際写真賞(第39回、2019年)、朝日賞(2020年度)ほか受賞多数。代表的な写真集に『にっぽん劇場写真帖』(室町書房)、『写真よさようなら』(写真評論社)、『光と影』(冬樹社)など。また東京工芸大学ほか客員教授、写真学校の講師なども務め、写真評論・エッセイも多数発表。国内外での個展が多数開催され、高く評価されている。公式HP

中平卓馬(1938-2015)。東京都生れ。写真家。1964年に写真家・東松照明の紹介で、当時写真家・細江英公の助手を務めていた森山大道と知り合う。同時期に写真・映画の評論活動を開始。1977年に病を得て後も個展の開催、写真集発刊、シンポジウム参加等精力的な活動を続けた。没後も、国内外で回顧展が開かれている。第2回写真の会賞(1990年)受賞。代表的な写真集に『来たるべき言葉のために』(風土舎)、『ADIEU A X』(河出書房新社)ほか、評論集に『なぜ、植物図鑑か』(晶文社)、『決闘写真論』(篠山紀信と共著 朝日新聞社)など。

森山大道さんと再会するのは2年ぶりだった。それは50年前にときが巻き戻されたかのような7月の午後。猛暑が続いた相模湾にも峯雲みねぐもが立ちそうで森山大道好みのそれになっていた。

展覧会場を案内していただき、逗子の町や近況についてうかがった。

展覧会場で中平卓馬さんの著書のテキストが投映される壁の前に立つ森山大道さん

中川(以下、――)逗子に引っ越されたときの印象はどうでしたか?(*3)

「細江先生(*4)のロケのアシスタントで逗子や葉山は知っていたから田舎町に来てしまったという気にはならなかった」

逗子の中心街にあった建物

(*3)ふたりは同じ1938(昭和13)年生れで、ともに1964年の結婚を機に逗子で新居をもつ。森山さんは夫人が葉山出身で、中平さんは戦時疎開で葉山町国民学校(当時)に通っていた。

(*4)細江英公ほそええいこう 1933年山形県生れ。写真家。1954年東京写真短期大学(現東京工芸大学)を卒業後、フリーで活動。1959年写真家集団VIVOを立ち上げる。VIVOには、奈良原一高ならはらいっこう(1931-2020)、東松照明(1930-2012)ら、その後の日本写真史に重要な役割を果たす写真家が集う。1963年作家・三島由紀夫の写真集『薔薇刑』(集英社)、1971年暗黒舞踏の創始者、舞踊家・土方巽ひじかたたつみ(1928-1986)をモデルにした『鎌鼬かまいたち』を発表。英国王立写真協会特別勲章(2003年)受章、文化功労者(2010年)。

――逗子時代はフリーになっていて、横須賀によく行ったそうですが、原子力潜水艦寄港反対やベトナム戦争でも熱くなっていました。

「俺はそれには関心はなかった。惹かれるのは”アメリカ”だったよ」

横須賀港

――あの町は日本海軍から米国海軍へ軍港化しますが、ポップカルチャーとしての「アメリカ」ですか? 本格的にデビューされた森山作品は「ヨコスカ」でしたね。

「いわゆる“アメリカ”。子どもの頃大阪の伊丹飛行場の近いとこに居て、朝鮮戦争だったか軍用機やアメリカ兵が一杯で、そんなアメリカの記憶が残っている。3年前に身体をこわして逗子に生活の拠点を移したけれど、時々いまもそれを求めて横須賀へは出かける。すっかり変わっちゃったけどね」

そしてこのふたりを引き合わせたのが、写真家の東松照明とうまつしょうめいさん(*5)だった。

(*5)東松照明とうまつしょうめい (1930-2012)愛知県生れ。写真家。大学卒業後、『岩波写真文庫』を経て1956年よりフリー。1959年写真家集団VIVOの立ち上げに参加。国内外を精力的に取材し、雑誌や写真集で作品を発表。写真展も多数開催。戦後の日本写真史を代表する写真家の一人。日本写真批評家協会作家賞(1961年)、日本写真協会功労賞(2005年)受賞、紫綬褒章(1995年)受章。

そして「あの頃のオレ達は、毎日が魚介類採取業者のよう」(*6)だったと中平さんがいうように、金も仕事もなく時間だけはたっぷりあったふたりは、朝電話をし、逗子銀座通りの「珠屋洋菓子店」で駄弁だべり、夏は潜水マスクやモリやタガネを手にしてバスで御用邸に近い長者ヶ崎の岩場に向かった。

長者ヶ崎。富士山遠望。手前の食堂には中平卓馬さんが晩年立ち寄っていた(2018年12月撮影)

スノーケリングに飽きると持参した写真誌の作品や作家をこき下ろした。そんな逗子時代の鬱屈した日々は、のちに同人誌「プロヴォーク」に参加してその過激な写真と言葉で既存の映像を「挑発プロヴォーク」し、自らの表現の糧にした。

(*6)『美術手帖』2003年4月号 特集「森山大道 中平卓馬 格闘写真史196X-200X」

5年後の1969年。高校生だった僕は、都心のデモの影響で到着が午前2時頃になった終電の横須賀線の逗子駅で、カメラを持った小柄で長髪の男に声をかけた。それがはじまりだった。偶然にも彼の家は僕の家のごく近所だった。のちにそばの家で映画『八月の濡れた砂』が撮影される(*7)。その後中平卓馬さんの家に出入りするようになり森山さんとも出会うことになった。

(*7)『八月の濡れた砂』監督・藤田敏八。1971年公開。70年代の倦怠感を、逗子を舞台に描いた。『太陽の季節』と同じ日活最期の青春映画。石川セリの主題歌が大ヒットした。

本展覧会が「挑発関係」と題するように、ふたりは同い歳で、単に同時期に写真家デビューした仲間だったというばかりではなく、「愛憎紙一重の伴走者」(*8)だったという。

(*8)(*6)に同じ。

――ボクシングにはパンチを受けるスパークリングパートナーがいますよね? 中平さんにはそんな人がそばに必要なんです。インスピレーションを湧かせくれて、考え方を論理だてるために。とくに体質が違う、異なる志向をもった森山さんはかけがえのない存在でした。

「やっぱり、俺は中平卓馬という存在によって、自分を相対化する、ということができたと思う。俺のエネルギッシュな部分と、中平のある種エネルギッシュな部分とが、いつも行ったり来たりしてたと感じるから。だから、中平がダメ(不調)な時は、彼は自分を分析していたと思うし、逆に俺がダメな時には、中平の存在を通じて、俺自身を分析することはあったよね。

お互いに相対的な、特に俺はそうだった。中平はどうだったかわからないけれども。俺は、ワーッと走っちゃうところがあるんだけど、そういうときに、それをすっと止めてくれるのが中平卓馬という存在だった。中平がそうしたんじゃなくてね」

筆者撮影の中平卓馬さんの写真を見る森山大道さん

戦友の絆はつよく、同志やライバルの友情は危うい。

1970年代になるとそれまで時代の寵児だった森山さんへの追い風はやみ、中平さんは自らの写真世界に疑問をいだく。

「ネガを燃やそう、これまでの写真を焼いてしまおう」

その秋の日の午後、僕を誘った中平さんは意を決したようにこう呟き、夫人とともに3人で披露山下の自宅から渚に向かう。暮れゆく浜辺に多量のネガやプリントが重なっていた。日頃の言動から予期はしていたが、「いいんですか?」と念を押す僕に、「いいんだよ、もう」と中平さんに逡巡はなく、火をつけた(*9)。のちに”写真家だから写真を燃やす”と書いている(*10)。

(*9)『原点復帰―横浜』横浜美術館 2003
(*10)『決闘写真論』篠山紀信 中平卓馬 共著 朝日新聞社

やがて中平さんは記憶喪失の病いにおち妻子の名も忘れて、逗子から横浜の実家に移る。ただ写真を撮る行為だけは憶えていた。

中平卓馬さんがネガやプリントを焼却した渚

一方、森山さんはスランプなのか、変わらぬ逗子の陽光の下で町を彷徨ってるかのように見えた。もうふたりは以前の様に交じることは無かったが、森山さんは僕には声をかけてくれた。そんな日々から逃れるようにパリに旅立ったときの様子が忘れられない。

やがて森山さんは家族を残して拠点を東京に移した。

そして80年代、逗子の日々で写した『光と影』で蘇る。その虚無感溢れる映像は以前の森山大道作品に無いものだった。長者ヶ崎のときがそうであるように、逗子のそれは森山大道の作品世界を分厚くしたと思う。

「芍薬」(1982年)『光と影』より ©森山大道写真財団

ふたりの姿が逗子から消えた海辺のホテルの喫茶室。「なぎさホテル」といえば大正期創業の西洋風保養地文化を残す逗子の唯一の場所だった。軽井沢の万平ホテルを縮小したような飾らない庶民性で親しまれ、この喫茶室が駅前の「珠屋」とともにふたりの写真家のオアシスだった。

1950年創業の珠屋洋菓子店。長年地元で愛され、遠方からのファンも多い

逗子や葉山にはお雇い外国人医師ベルツらが保養地や海水浴場として湘南地方を「発見」して以来、皇族、元勲、財界人、作家文人らが居をかまえる。幻想小説の泉鏡花や日蔭茶屋事件を起こした仏文学者でアナーキスト大杉栄も蟄居していた(*11)。

(*11)本連載第7回参照

海軍横須賀鎮守府ができ横須賀線が開通(1889[明治22]年)。いらい逗子は海兵の町という別の顔がある。駅から海水浴場への道に東郷橋がかかっている。このそばには東郷平八郎の別邸があった。

「なぎさホテル」門前の私立逗子開成中学・高校は海軍関係者の子弟教育の要望の高まりを受けて創設されたといわれる。我が家は1966年に大阪から逗子へ転居したが、それも海軍人脈によるらしかった。

東郷橋

ふたたび森山さん。

――いま逗子の生活に戻られてどんな気分でしょう?

「都内から逗子に移ってほっとして見えたことがある。でも、やっぱりその路上が恋しくて週に一度は新宿の雑踏でスナップを撮っていたりする」

生涯旅人であり、巷の擦過者さっかしゃの森山さんの言葉に「浮遊感と着地感」(*12)がある。奇しくもいまの逗子の日々はバランスがとれているのかもしれない。

(*12)『絶対平面都市』森山大道 鈴木一誌 共著 月曜社

『Nへの手紙』(2021年)©森山大道写真財団

――中平さんの晩年の撮影圏は横浜、鎌倉、逗子、葉山の自然物で“三浦半島帰り”しました。彼にとってそこは写真の理想郷アルカディアだったんです。

「俺は興味ないな、横須賀だけは別だけど。中平の晩期のカラー作品はそんな背景は関係なく、目にしたものをただ “モノ”として捉えていることがすごい」

* * *

感傷が“モノ”の本質を見えなくすると気づいていたのか? 森山さんが感応するのは距離をおいた都会の光景や断片なのだ。中平さん没後も森山さんの新作には眼力の緩みは感じられず、作品が発表される都度、アフターバーナーをかけたように力があって新鮮だ。

世界の写真史上特異な作品世界として記されるふたり。

それを育んだのは三浦半島の光と海だろう。そしてふたりの写真家には堅固な意志が健在だった。それは“光と影”、“モノと「私」”という写真の原理に立ち還るふたりの思想の旅のようだった。

『挑発関係=中平卓馬×森山大道』展。そのポスターは2枚の浜の写真で構成されている。逗子の渚に救いはあったのか? その問いに答えてくれないのが、この海だ。

中平卓馬さんの命日も近い。ことしの墓参にはこのポスターを手向けよう。いくつもの悲喜劇を呑み込んだ海だから。 

中平卓馬さん逝去4日後、かつて写真を焼却した渚に花を手向けた(2015年9月5日撮影)


森山大道さん(右)と筆者

※本文中、引用元記載がない森山大道さんの言葉はインタビュー時のものです。

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在住の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。

文・写真=中川道夫
取材協力=森山大道写真財団、神奈川県立近代美術館 葉山
写真(インタビューの様子)=根岸あかね

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