見出し画像

疫病や外敵を祓う役割を担っていた羅城門――祈りの場としての平安京表玄関

文・ウェッジ書籍編集室

まだまだコロナ禍の完全な終息には至っていない日本。人間と疫病(感染症)の戦いは今に始まったものではなく、文献によれば、平安時代の都の人びとも幾度となく苦しめられてきました。
羅城門(らじょうもん)は平安京の入り口として知られていますが、芥川龍之介の短編小説『羅生門(らしょうもん)』の舞台ともなり、疫病や飢饉などが相次ぐ都のなかで、鬼神が住みつく荒廃した門の姿を想像する方も多いと思います。
羅城門は平安京の正門としてつくられ、もともとは外敵の侵入を防ぎ、疫病の蔓延を防ぐなどの役割を果たしていましたが、いつしか荒廃が進み、鬼神が住みつくイメージをもたれるようになりました。
ここでは、『京都異界に秘められた古社寺の謎』(新谷尚紀 編、ウェッジ刊)から、疫病などから平安京の人びとを守る役割を担った羅城門の実像に迫ります。

画像5

平安京のシンボルだった羅城門

 平安京は、古代中国の長安や洛陽に造営された都城(とじょう)をモデルにしていたとされます。古代中国の都城はまさに「城」であって、外敵から防御するために堅固な城壁(外郭)によって取り囲まれていました。そのような城壁は、羅城(らじょう)と呼ばれていました。

①羅城門(花洛往古圖(国会図書館)2

正門である羅城門から朱雀大路が真っすぐ北に走り、左右には東寺と西寺が位置していたことがわかる(『花洛往古図』)

 平安京は南側には羅城をもうけたものの、他の三方にはもうけられませんでした。東側は鴨川が、西側は桂川が流れ、北側には山なみが迫っていて、それらが天然の要害になりうると考えられたのかもしれません。

 しかも南側の羅城も門の左右にしばらく続いただけで途切れ、おまけにその羅城は正確にいえば築垣(ついがき)にすぎませんでした。こうしたところにも、中国と日本の風土や文化の違いを読み取ることができます。

 平安京羅城の中央にもうけられたのが羅城門ですが、平安京の中央を南北に走る道幅28丈(約84メートル)の朱雀大路(すざくおおじ)の南端にあり、この門を抜けて北へまっすぐに進めば、やがて大内裏(だいだいり/平安宮)にたどり着きます。

 また、外側の南には鳥羽作道(とばのつくりみち)が真っ直ぐに延び、大坂や大和方面に向かうことができました。羅城門とは、平安京の栄えある正門、表玄関だったのです。

「祈りの場」でもあった羅城門

 羅城門は延暦13年(794)の平安遷都にともなって創建され、桁行(けたゆき)七間、梁間(はりま)二間、二階建ての壮麗な門であったと推測されています。門の内外に幅3メートルほどの溝が掘られ、そこには橋が架けられており、内側には九条大路が東西に走っていました。羅城門は「らいせいもん」「らせいもん」とも読まれたらしく、転じて「羅生門」という俗称もあります。

②羅城門模型2

羅城門は現存しないが、現代の京都の表玄関である京都駅の北口広場には、10分の1サイズの模型が置かれている(京都市下京区)

 そこはまず外国使節や高僧の送迎をする政治的な空間であり、門の北側の、七条大路と七条坊門小路のあいだの朱雀大路沿いには、外国使節の宿泊・接待施設である鴻臚館(こうろかん)がありました。ですが、羅城門にはそれ以外にも重要な役目がありました。

 初期の羅城門の楼上(ろうじょう)には、毘沙門天(びしゃもんてん)像が安置され、寺でもないのにそれが本尊とされていました。それはどういうことかというと、江戸時代中期に編まれた京都の地誌『雍州府志(ようしゅうふし)』(1686年刊)には、つぎのように由来が説明されています。

「かつて唐にはしばしば西蕃(せいばん/西域の異民族)が侵攻してきたが、僧・不空(ふくう)がただひたすら毘沙門天を念じたところ、神兵が出現し、西蕃を撃退した。これにより、城門楼上には毘沙門天像が安置されるようになった。平安京でもこれに倣って、羅城門楼上に毘沙門天像が置かれた」

 毘沙門天は仏教の四天王のひとつで、北方守護の武神として信仰されていましたが、毘沙門天のなかでも西域の兜跋国(とばつこく)に出現したとされる兜跋毘沙門天については、前出の『雍州府志』が記していますが、王城を守護したとの伝説があります。平安京の南端にあたる羅城門に置かれて門外を監視していたのは、重厚な鎧(よろい)に身をかためた兜跋毘沙門天でした。

 また羅城門の前では、羅城御贖(らじょうのみあがい)と呼ばれる祓(はらえ)の儀式や京中の鬼気を追い出す羅城祭なども行われました。そこは、外敵や疫病を祓う「祈りの場」でもあったのです。

 古代の京の人びとにとって、羅城門の一歩外は異界・魔界でした。境界に建つ羅城門は、象徴的・宗教的なかたちで、外界から平安京の人びとを守る役割も大いに期待されたのです。

③羅城門跡2

京都駅の南側・花園児童公園内に設置されている羅城門遺址(京都市南区)

平安時代前期には荒廃して鬼神の住みかとなる

 平安遷都からおよそ20年後の弘仁(こうにん)7年(816)、羅城門は大風のため早くも倒壊してしまいました(『日本紀略』)。その後再建されますが、しだいに荒廃が進んでゆきます。

 その時期のエピソードのひとつとして、鎌倉時代中期の説話集『十訓抄(じっきんしょう)』に、つぎのことが載せられています。

 都良香(みやこのよしか/834~879年)は文章博士(もんじょうはかせ)を務めた平安朝を代表する漢詩人だが、その彼があるとき羅城門を過ぎ、「気霽(は)れては風新柳(しんりゅう)の髪を梳(くしけず)る」と詠んだ。すると楼上に声がして、「氷消えて浪旧苔(きゅうたい)の鬚(ひげ)を洗う」と対句が吟じられた。後日、良香がこのことを菅原道真に話して詩を自賛すると、道真はこう言った。「下の句は鬼が詠んだのだろう」。

 伝説色の濃いエピソードですが、平安時代前期には、鬼神が住み着いていると思われるほどに、羅城門は人気がなく寂寥としていたと考えられます。

④羅城門の鬼 鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』

羅城門に巣食っていたとされる鬼。源頼光の家来・渡辺綱が羅城門で鬼と戦った伝承が残る(『今昔百鬼拾遺』)

 もうひとつ有名なのは、『今昔物語集』(12世紀前半成立)に収められた説話です(巻第29)。

 日暮れ時に京に上ってきた盗人が身を隠そうと羅城門の二階にのぼると、老婆が放置された若い女性の死体から髪を手荒く抜き取っているのに出くわした。はじめは老婆を鬼か死霊かと思ったが、彼女はその髪で鬘(かつら)をつくって、生活の糧を得ようとしていたのだった……。

 この話は、黒澤明によって映画化もされた芥川龍之介の短編小説「羅生門」の題材になったことで、よく知られています。このように平安時代初期の時点ですでに羅城門は、都ではなく魔界への出入口になってしまったのです。

――平安京の表玄関・羅城門については、『京都異界に秘められた古社寺の謎』(9月16日発売、ウェッジ刊)の中で、異界の場ともなった京都の古社寺とともに詳しく触れています。全国主要書店およびネット書店で発売中です。ご注文はこちらから。


よろしければサポートをお願いします。今後のコンテンツ作りに使わせていただきます。