日記(4月23日 / 失われた30年)
「山上徹也と日本の『失われた30年』」という本を読んだ。
「失われた30年」というのはよく聞く区分だけれど、今年29歳になった私の人生はすっぽりとそこに入っている。私は失われる前の生活を知らない。
人生の前半、15歳くらいまでのことで記憶に残っていることは、郵政民営化とリーマンショック、年越し派遣村くらいである。リーマンショックの時は、父の仕事がなくなったら自分はどうなるのだろうとぼんやり思っていた。
そのあとの記憶は、東日本大震災が起こり、菅直人氏が被災地を訪れ(当時はトップが現場に行くなんて邪魔なのでは……と思ったが、大人になるとあの行為は重要で真摯な対応だったのだと感じる)、アベノミクスで景気は上向き、民主党は散り散りになり、有力な野党なき時代が続き、コロナ禍を経て、今に至っている。
本の中で、映画「ジョーカー」の話が度々出てくる。私も映画館で観て少なからず衝撃を受けた。とはいえ、「ジョーカー」単体ではアメコミにしては重厚感のある面白い映画だくらいの気持ちだったが、この後に「パラサイト」が公開されて、貧困を描く映画が立て続けにヒットしていることに心が引っかかったというか、そういう感覚を覚えている。(観ていないのだけれど、「万引き家族」もこの頃公開されていた気がする)
「ジョーカー」では貧困の中にあるアーサーは自身の過去にも未来にも絶望してジョーカーとなる。
2019年(ジョーカーの公開年)ごろの私はかなり能天気だったというか、特に将来について考えることもなかったので、この社会に未来なんてないという絶望(上記の本の言うところのノーフューチャー感)に囚われていたかどうかあまり記憶にない。もらった給与は使い果たす、みたいな生活をしていた。
けれど、今となっては「ノーフューチャー感」を自分も感じているような気がする。いつ頃からかわからないが。この先の給与が増えるのかどうか確証が持てないとか、ちまちま微増していく社会保障費をみてグッと歯を食いしばるとか、一度病気にでもなって働けなくなったら一気に「生きる」レールから外れてしまいそうだ、とか。そういう不安で自分の身を守るだけで精一杯で余裕がなくなって将来には絶望していて。自分の生活がなんとか成り立っているのは、ただ運が良かっただけな気がするという。
「この国で自分には先がないのだ」という気持ちを人に抱かせ続ける社会はきっと不安定になるだろう。追い詰められれば人間はプツンとなる。
先日読んでいた「ネイティブ・サン」のことを思い出した。
「ネイティブ・サン」でも主人公は「自分の人生を生きている」という感覚を抱けず、自分に無力感を味わせ続ける社会を憎んでいた。どうもこのことが頭の中でぐるぐるしている。この本でロスジェネ世代について書かれていることと同じじゃないかと……。
ネイティブ・サンの件も、その他の宗教の件も、もう眠いのでまた今度書こうと思う。
最後まで読んでくれてありがとう。