見出し画像

革命フラッシュバック〜藤原伊織『テロリストのパラソル』(1995)

 今年2022年5月28日、重信房子氏が東京都昭島市の「東日本成人矯正医療センター」を出所した。ついこの間のことである。

 マスメディアの取り上げ方が予想以上に大きく驚いた。今の若い世代には馴染みが薄い名前であろうから、中高年を意識した報道であったのか。いや、中年世代にもピンと来ないだろう。反応するとすれば、すでに高齢者の域に入りつつある方々かと思う。

 新左翼運動に限らず、革命や過激な政治活動は日本の歴史上でも珍しくはない。明治維新がそうであるし、日本共産党も革命政党であった。英雄や指導者の活躍。同志との団結。造反有理。このように、”革命”という言葉の響きに、高揚感を抱く人々がいても不思議ではない。しかし、理想やロマンを語るだけでは説明にはならない。血を血で洗う革命もあったのだ。重信氏の姿で、かつて書物や報道で知った様々な”革命”が思い起こされた。

 当方は、重信氏より一回り下の世代の人間である。

  過激派に関わりがある小説ということで、故・藤原伊織氏の『テロリストのパラソル』(1995)を手に取った。20年以上前の文庫本。傷みが激しい。ウラ表紙の概要にはこうある。

アル中バーテンダーの島村は、過去を隠し二十年以上もひっそりと暮らしてきたが、新宿中央公園の爆弾テロに遭遇してから生活が急転する。ヤクザの浅井、爆発で死んだ昔の恋人の娘・塔子らが次々と店を訪れた。知らぬ間に巻き込まれ犯人を捜すことになった男が見た真実とは……。史上初の乱歩賞&直木賞W受賞作。

講談社文庫(1998年第2刷)

 この概要にもあるとおり、主人公・島村はアル中である。爆弾テロで死んだ昔の恋人は、東大の同級生。二人は1969年、駒場で全共闘として籠城生活を送った同志でもある。

 本作が刊行されたのが1995年だから、その時すでに闘争から約四半世紀が経っている。現時点では、50年経過ということになる。

 90年代半ばと今では、当然ながら新左翼に対する受容感覚は異なるはず、などと漠然と想像しながら読み始めた。作者は1948年生まれだから、発刊時には47歳。遡る1969年は21歳か……

 藤原氏が学生運動にコミットしていたかどうかは知らない。しかし、主たる登場人物は全共闘の活動家でもあり、氏が新左翼に大きな関心を持っていたことは間違いない。運動から離脱した方々は、本作刊行時には壮年。多くの方々が、社会の中核として活躍されていたはずである。

 90年代半ば。サラリーマンなど「普通の人」になったとはいえ、革命の残り火のように燻っていた元・活動家の方々はかなりおられたと思う。当方の勤務先の先輩にも「暴れた人」がいて、学園紛争時のエピソードをよく語っておられた。

 2022年、老境に入りつつあるとはいえ、まだまだ意気軒昂であろう全共闘世代の目に、重信氏の出所は如何様に映ったであろうか。

 さて、『テロリストとパラソル』である。本作品は、1995年に江戸川乱歩賞と直木賞の2つを獲っている。これは史上初の快挙らしい。

 講談社文庫の解説者である関口苑生氏によると、「実際、四十年以上におよぶ(筆者注:受賞時点を指す)江戸川乱歩賞の歴史の中で、予備選考、本選考ともに満場一致でランクの評価を受けた作品は、いまのところ本書ただ一作とも聞いている。」(380頁)とのことである。

 同解説では、選考委員の感想も紹介されている。高橋克彦(以下、敬称略)をはじめ、阿刀田高、井沢元彦、北方謙三、西木正明。いずれも「ほぼ絶賛に近い感想」(381頁)である。

 高橋克彦は、「主人公の造形」が完璧であると評している(380頁)。しかし、当方にはステレオタイプに思えた。学生運動の男などは、発刊よりずいぶん前、例えば映画『もう頬づえはつかない』(1979、東陽一監督)などに現れていたし、爆弾テロリズムは『太陽を盗んだ男』(1979、長谷川和彦監督)では、原爆による脅迫まで描かれている。アル中という設定も、戦中戦後のデカダン作家の流れを組むようで目新しさに乏しい。昔も今も、酒に溺れる男など珍しくないのである。
 
 井沢元彦は、「何よりも主人公やそれを取り巻く人間たちが極めて魅力的であり」(380頁)としている。魅力がないとは言わないが、主人公以外の登場人物もどこかで見たことがある感じ。例えば、死んだ恋人は高級官僚出身の政治家の娘で、渋谷の高級住宅地に住まいがあった。主人公と別れた後は外務官僚の妻に収まったりと、今で言う「上級国民」風。財閥の箱入り娘がコミュニストに恋したり、立派な家庭の娘が学生運動に身を投じる、といった設定に似て、デジャブ感(既視感)があるのである。

 文章については、阿刀田高が「なによりも文章がよい。」(380頁)と評価し、西木正明は「ハードボイルドの範疇に入る物だろうが、まず会話のうまさに舌を巻いた。」(380頁)と分類やテクニックに言及している。文章がよいかどうかは主観的な評価である。まあ、賞を獲るくらいだから下手ではない。しかし、同レベルの文章を書く作家は、当時であっても容易に見い出せたのではないか。ハードボイルドという点ではヘミングウェイなどのタッチがすぐ思い出され、新鮮味を覚えなかった。会話は、書き慣れた印象でリズミカルだが、どこかで見た映画やドラマのセリフのようだ。

 文庫解説の関口氏は、「本書が話題になったとき、一部では全共闘世代のおジンたちだけが喜んでいる、マスターベーション小説だとの評価もあったようだが、(後略)」(384頁)と述べている。そういう指摘は、ある程度的を得ている。しかし、物語はどちらかと言うと娯楽の要素が強く、読み捨て作品の類に成り下がっていると思う。全共闘の自己陶酔(これがマスターベーション)だけでなく、当方も目撃してきた、先輩世代の武勇伝をドラマ仕立てにした感もある。これで儲けたのかと思うと、何か騙されたような、少々腐臭さえ漂うような……

 「ほぼ絶賛に近い感想」は行き過ぎであると思う。では、90年代半ば、選考委員たちが、揃って高い評価を与えたのはなぜか?

 ここには、断定的なことを述べるに足る材料を持ち合わせていない。ただ、作者と論評者との間に、「思い出の共有感」があったのでは?と思った。
 
 本作は、革命の失敗というより、その堕落を描いている。末路と言ってもよい。同志だった仲間に対する嫉妬、憎悪は現実にあった出来事「内ゲバ」のカリカチュア(戯画化)であろう。いったい、志(こころざし)はどこへ行ってしまったのか。

 本作に高い評価を与えた委員には、そういう滅んだ”革命”への挽歌のイメージが喚起されたのではないか。それは、「思い出の共有感」と言ってもよい。ノスタルジーに近いものだ。そしてW受賞には、作者と評者とが共有する同世代感覚から発する、一種互恵的な感情が作用しているようにも思える。文体やキャラクター造形への讃辞は表面的で、後付けの補強説明だ。

 90年代、本作品にはある特定の世代に訴えかける磁力があったのであろう。今、当方があれこれケチをつけているのは、自分が2022年という時代のフィルターを通しているからに他ならない。

 その制約を前提にさらに述べると、このストーリーは何かしら嫌らしい部分がつきまといながら展開しているところがあると分かる。

 先に述べた恋人が上流の出身であるのは、階層構造を自明としているような感覚だ。そして、その階層を固定的なものとして、東大生がアル中のバーテンダーや平凡な勤め人に、警官や自衛官がヤクザになったりと、「上方」から「下方」に降りてくるキャラクター造形が見られるのである。いみじくも人民のために闘う革命家、職業に貴賤ありなどという価値観は許されないのではないか。

 さらに、自分の居場所は本来ここではない。もっともっと、上層部に収まるべきだったのに。不運にしてこんな境遇になったのだ。ひっそりと暮らしているが本当は過激で、普通の人間とは違うんだぞ。そういったエリート意識の裏返しが鼻につく。

 主人公がボクシングの強者であったり、ヤクザと渡り合ったり、ヤクザに褒められたりするところもそうである。「オレ、実は凄いんだぜ」という自己顕示に見えてしまう。

 主人公が、若い女性に好意を持たれる設定なども、今の女の子たちには、ただの中年の幻想と見られても仕方がない。「キモイ!」と切り捨てられそうである。

 このように、現時点では「ちょっとどうかな?」と感じざるを得ない部分が多々あるのである。いや、今と言わず、95年の受賞時にも違和感を覚えた人々は案外少なくなかったかもしれない。

 では、『テロリストのパラソル』をこれからも読む価値はあるだろうか?

 一般的には、賞味期限切れということだろう。しかし個人的には興味深い作品だと思う。デフォルメされてはいるが、作品は90年代の精神的雰囲気を伝えている。また、当時の東京の街を見ているような感覚を呼び起こす。

 それから、今に通じるというか、今なお解消されていないセンスが描かれているところが面白い。例えば、外国語やニューヨークという都市を取り上げる際などに、海外に対するコンプレックス感が垣間見える。グローバル化が進展したとはいえ、日本人にはこのような劣等感は未だに根強い。また、帰国子女を特別な人種のように描写しているところもコンプレックスである。そういう子女は今や珍しくないとはいえ、優越的な扱いをしがちな風潮は、増幅されているとも感じられる昨今である。本作は、無自覚であるにせよ、そういう歪んだ感覚を晒している。

 革命は一旦終わった。そして、堕落した。小説は、時代に踊った人々のエートスを無意識のうちに暴露している。旧態依然たる価値観に囚われ、矛盾を「止揚」することに挫折した人々が、作者の意図とは違う場所でうごめいている。

 『テロリストのパラソル』は、文学賞受賞翌年の1996年にテレビドラマとして放映もされている。間髪を入れず映像化されたのは、それだけ話題性があったからだろう。もちろん、ドラマ化はこの度WEBで調べて初めて知ったことである。今年2022年1月に、BS某局で再放送されたらしいので、根強い人気があるのかもしれない。今は亡きショーケン主演。機会あれば見てみたい。

 

 

 
 
 


この記事が参加している募集

読書感想文