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メキシコ右往左往〜ジョーン・バエズからエイゼンシュタインまで

 6月12日(土)朝、ピーター・バラカン氏のFM番組で、ジョーン・バエズの『朝日のあたる家』(1960)を聞いた。ボブ・ディラン、アニマルズをはじめ、さまざまな歌唱があるこの楽曲、アメリカのフォークソングである。歌詞にもバージョンの違いがある。ディランが吹き込んだのが1962年だから、バエズは2年早い。

 特別バエズのファンというわけではない。しかし、彼女の60年というキャリアと美声は圧倒的だ。そして、この人はメキシコ系ということだ。

 今回はメキシコについて、ツラツラ書こうかと。

 メキシコ女性で思い出すのは画家フリーダ・カーロ。メキシコシティの高級住宅地コヨアカンの美術館(旧居「青い家」)は、6年前の2015年に訪れた。1907年生まれの彼女、母親はメキシコ人だが、父親はユダヤ人である。夫ディエゴ・リベラほか、彼女を取り巻く人間模様、生き様については、これまでに著述や映画が数多くあるので、素人の当方がくどくど述べても意味がない。1954年に亡くなっているから、今年2021年は没後、67年ということになる。

 「青い家」は芸術家の自宅らしく、建物の鮮やかな色彩もさることながら、付近の落ち着いた環境と相俟って魅力的なスポットとなっている。そして、この旧宅は1936年、ロシア革命の指導者レフ・トロツキーがヨーロッパからメキシコに亡命後、2年間を過ごした場所でもある。トロツキーとフリーダが恋愛関係にあったこともよく知られている。確か、室内にマルクス、レーニンなどの写真が飾られていた。

 トロツキーはその後、「青い家」から現在『トロツキー博物館』となっている自宅に移っている。暗殺から身を守るために要塞化された異様な建物である。「青い家」から徒歩圏内の距離に建っており、庭には夫妻の墓がある。

 トロツキー宅で印象に残るのは、壁に残る多くの弾痕である。これは、脳天にピッケルを打ち込まれて憤死する1940年8月の3ヵ月前に、武装集団に襲撃された痕跡である。トロツキーは応戦し、いったんは命拾いしたのだ。これが、すでに81年前の出来事である。

 弾数は少ないが、これ以外に室内の銃撃の跡を見たのは、ジャマイカ・キングストンのボブ・マーリー博物館(彼の旧居)においてである。こちらは1976年、45年前の事件である。このジャマイカの英雄も、危険に遭遇しながら、その場の死は免れたのだ。 

 トロツキー暗殺は、ジョゼフ・ロージー監督の映画『暗殺者のメロディー』(1972)がイメージを伝えている。トロツキーはリチャード・バートン、暗殺者ラモン・メルカデルはアラン・ドロンが演じている。メルカデルの恋人役はロミー・シュナイダー。この作品は、DVDで何度も見ている。

 蛇足ながら、映画ということでは、ジャン・ポール・ベルモンド主演、アラン・レネ監督『薔薇のスタビスキー』(1973)が、トロツキーのフランス亡命を背景としている。トロツキーは、映像世界でも千両役者でもある。

 トロツキーの思想と行動については、アイザック・ドイッチャーの評伝が定番だが、トロツキーに対する評価の変遷から、また大部の書籍でもあり、今日では入手困難となっている。その後、新たに評伝がいくつか出版されているが、いずれも大作で読んでいない。しかし、自伝や本人に手による著作が多くあり、また、近年は新訳も出ているので、翻訳ではあるがトロツキー自身の文章に直接触れることは、今でも比較的容易であろう。

 文学についても造詣が深いトロツキーだが、中でもシュールレアリストのアンドレ・ブルトンとのやりとりは興味深い。恥ずかしながら、ブルトンの著作は読んでいないのだが、トロツキーの秘書だったフランス人のジャン・ヴァン・エジュノール『亡命者トロツキー 1932ー1939』(1978、草思社文庫に翻訳あり)がそのあたりを語ってくれている。ちなみに、同書の旧題は『トロツキーとの七年間』。エジュノールは、ドイッチャーの記述の不正確さを手厳しく批判している。

 トロツキーについては、全共闘世代の方々が当方よりもはるかに詳しいだろう。思想家というより、革命家、ソビエト赤軍の創始者と位置づけられる傾向が強く、アカデミックな哲学史などに登場することはまずない。しかし、理論を実践することの難しさを体現した人物として、改めて検証が必要ではないか。

 トロツキーは文学には寛容で、『文学と革命』(岩波文庫)などの著作もある。しかし、ブルトンとの交流では、ボルシェヴィズムという政治的立場に固執し、芸術の独立性について否定的だったと言われている。 

 その他、トロツキー関連では、安彦良和氏の『虹色のトロツキー』(1997、潮出版社)が面白かった。旧満州国が舞台の劇画である。全7巻、中公文庫でも読める。

 トロツキーが長くなってしまった。

 メキシコのトピックに戻るが、マヌエル・プイグというアルゼンチンの作家が、1990年、クエルナバカという地方都市で客死している。

 プイグは、映画『蜘蛛女のキス』(1983)の原作者である。映画はロードショー時、福岡ですぐに劇場に出向き、その後、ビデオで何回か見ている。映画のセンスもよいが、オリジナル・ストーリー『蜘蛛女のキス』(1976、集英社1983年刊)はもっと素晴らしい。

 プイグは政治的理由で、1973年、故国アルゼンチンを追われ、アメリカ、メキシコ、ブラジルなどを転々としたという。亡命者という点で、トロツキーに似ている。作品は、映像を追うような感覚で読むことができる。国外追放の原因となったのは『ブエノスアイレス事件』(1973、白水社1982年刊)という文学作品。これは、香港のウォン・カーウァイ監督が、ゲイ・カップルを描いた映画『ブエノスアイレス』(1997)を制作するきっかけにもなった小説。当方、レスリー・チャン、トニー・レオンが熱演するこの映画も愛好している。原作者プイグは同性愛者だったと言われている。

 このように、プイグ作品は視覚的ということからか、映像化に成功している。1980年代、日本の小説家の故・連城三紀彦氏が、『戻り川心中』(1980、講談社)、『恋文』(1984、新潮社)など、やはりビジュアル・イメージを喚起させる物語を、多数世に送り出していたことを思い出す。時代の重なり具合から、プイグあたりを意識していたのでは。

 そのプイグ、なぜメキシコで亡くなったのか。亡命生活を送る中で、メキシコを終生の地とすることは決めていたようだが、暮らしていたメキシコシティの気候が標高の関係から身体に合わず、それでクエルナバカに移ったらしいのである。移転直後の無念の死。エイズが原因とも言われている。ノーベル賞の呼び声もあったという。標高が1,500メートル程度と比較的低いクエルナバカは、愛らしい遺跡の街と聞く。当方、是非行きたかったのだが、果たしていない。

 首都メキシコシティは、高地のため住みやすくないというより、標高が高いせいで暑すぎず、むしろ住みやすそうな印象である。数年前、某企業で外国人社員に対する日本語研修を担当したことがある。インド人やヨーロッパ人に研修生に混じり、メキシコシティ出身の女性がいて、盛大な歴史的行事「死者の日」、大学立地など文教面の豊かさ、国際都市のメリットなど、大都市のよさをいろいろ教えてくれた。当方、音楽ではトリオ・ロス・パンチョスを好んでいると言ったら、「懐メロですね。ひいおじいちゃんが聴いてたみたい」と笑われた。それでも、よいものはいつまで経ってもよい。CDで今も時々聴いているのだ。

 メキシコシティは、メロンパンが美味しい。正確には、「コンチャ(貝殻の意味)」という。ふわふわの食感が特徴で、日本のものとは違うのだが、まあメロンパンの一種である。コロンビア資本のカフェで食したのが滅法うまかった。コーヒーも高品質で安く、この街がすっかり気に入ってしまった。

 その他、メキシコシティでは、プロレスが思い出に残る。これは「ルチャ リブレ」と呼ばれる大衆娯楽で、首都だけでなく地方興行もある。日本のファンも多いらしい。ただ、技は危険度が高い印象。また、低身長レスラー、ゲイ(?)レスラー、女子プロレスなどの披露もあり、日本のプロレスとは趣きが異なる。写真撮影も禁止、当方それを知らずに入場しようとしたところ、カメラを取り上げられた。それにしても、老若男女、盛り上がり方が凄かった。 

 メキシコ名物の闘牛は、どうも見る気になれなかった。 血が流れるせいであろう。セルゲイ・エイゼンシュタイン監督『メキシコ万歳』(1930〜32年撮影)では、闘牛のシーンが続く。白黒だから、なんとか持ちこたえた。上記『暗殺者のメロディ』でも闘牛の場面があった。これは、エイゼンシュタインを意識しているかと。しかし、赤い血は生々しかった。

 ということで、6月12日(土)の今日、『メキシコ万歳』のDVDを久しぶりに見返した。よく知られていることだが、この映画は1930年末から撮影が行われたものの、資金不足などの理由から1932年1月に撮影中止。映画未完成のまま、エイゼンシュタインは1948年に死去。その後30年も経って、ニューヨーク近代美術館に保管されていたネガを、撮影スタッフ唯一の生存者であったグレゴリー・アレクサンドロフ氏が、1930年代当時のシナリオや資料をもとに編集、1979年に作品化したものだ。

 遡ること2000年、古代マヤ・アステカ文明の時代から、メキシコの歴史を表現の対象とする雄大な構想の作品である。民族の生活、植民地支配、独裁時代を4つのエピソードで描き出している。

 しかし正確には、エイゼンシュタインの映画ではない。

 篠田正浩監督は、自著『エイゼンシュタイン』(1983、岩波書店)の中で、アバンギャルド派の文芸評論家、佐々木基一氏の論評に基づき、本作品について次のように述べている。

「しかし、すでにこの世にいないエイゼンシュタインの才能や思想を第三者によって再現することは、はじめから無理な計画であった。」(176頁)

 その評価の拠り所となる佐々木氏の評価はもっと辛口で、 

「人間の生と死に関するエイゼンシュタインの瞑想や、生と死とののっぴきならなぬ闘争といった主題は、どこかに消し飛んでしまっていた。」(176頁)

と強い批判となっている。

 しかし、当方、これらの低評価について理解できるものの、現代においてこれを見直す場合、異なる見解が生まれる可能性があると考える。

 まず、アレクサンドロフ氏は第三者ではなく、フィルム編集は彼以外にはあり得なかった。エイゼンシュタインが天才ならば、その構想の忠実な再生には困難な作業であるとしても、意図を最大限汲むことができる適任者は彼しか考えられなかった。

 次に、佐々木氏の言う「生と死ののっぴきならぬ闘争といった主題」は、編集時点の1979年当時、果たして説得力のあったテーマであったかどうか。もちろん、エイゼンシュタインの映画の復活とすれば、そういう主題を消してしまったことは失敗と言えば失敗である。

 しかし、その失敗は、「大きな」失敗であったであろうか。21世紀の今日以降、そしてコロナ禍が続くとすれば、「生と死の闘争」が再び喫緊のテーマになる可能性はある。しかし、80年代入り口という時期において、エイゼンシュタインのテーマが、1930年頃と同程度の説得力を有していたかどうかは疑わしい。佐々木氏は、新生『メキシコ万歳』を「牙を抜きとられた野獣(同上176頁)」と酷評しているが、果たしてそうか。アレクサンドロフ氏が、事件の叙述に終始した意図こそ、いま一度吟味されるべきではないか。

 以上から、私見では『メキシコ万歳』はアレクサンドロフ氏のオリジナル作品と見るのが自然である。

 当方、以前からエイゼンシュタインの他の映画、例えば『十月』(1928)とか『イワン雷帝』(1944)などより『メキシコ万歳』が好きである。『戦艦ポチョムキン』(1925)は確かに傑作だと思うが、『メキシコ万歳』は別物と言ってよい。

 その理由を今回チェックしてみた。ひとつわかったのは、音楽がとても効果的に聞こえたことである。音楽担当は、ユーリー・ヤクシェフという人である。どんな人か全くわからないのだが、単調ながら迫ってくる音である。アレクサンドロフ氏がこの旋律を強調するのは、「私は、エイゼンシュタインとは違うものを皆さんに示したいのだ」と唱えているようにも聞こえる。

 映画の冒頭近く、フリーダ・カーロの夫、ディエゴ・リベラの大柄な姿が見える。エイゼンシュタインは、トロツキーを忘れていない。ただし、撮影時にはトロツキーはまだメキシコに入国しておらず、ソビエト訪問経験があり、トロツキーに共鳴するリベラの背後にいるトロツキーを意識して撮っていると想像できる。もちろん、これはエイゼンシュタインの視線である。

 しかし、1979年の編集時点では、トロツキーとメキシコとの深い関係はすでに史実となっている。リベラの映画への登場は、メキシコでトロツキーと切っても切れない関係を築いた彼の姿を見せたいというアレクサンドロフ氏の作為も含まれているかもしれない。

 積極的に関わったわけではないメキシコという国。それでも、「結果として」けっこうなエピソードが出てきた気がする。まだまだ書いてないこともあるが、それはまた別の機会にでも。

 コロナ禍の土日が続く。懐メロ、トリオ・ロス・パンチョス演奏のイーディ・ゴーメ名唱『ある恋の物語 Historia de un amor』でも聴いて寝るか。







 

 

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