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40年ぶりの「蒲田行進曲」〜完結編『銀ちゃんが逝く』(その2)

(承前)

振り返ってみると、「蒲田行進曲」初演の1980年から劇団つかこうへい事務所解散の1982年の頃は、つか自身にとっても、役者陣にとっても大きな転機になっている。“小劇場ブーム”に乗って一部の観客の間で有名になった人々が、一気に全国区の俳優になっていった。

柄本明は、1980年頃からテレビに出演するようになり、1982年には「男はつらいよ」シリーズに出演する。根岸季衣も女優として開花する。

こうしたことも手伝ってか、彼らの舞台には一種の高揚感があり、私にはそれがたまらなく魅力的だった。長谷川康夫著「つかこうへい正伝」によると、「蒲田」を含む1980年の<「三部作」公演で、「つか事務所」の役者たちの絆は、おかしなほど強くなっていた>、<毎日一緒にいて、皆で根岸に引っ張られるように、ほぼ1日も欠かさず飲みにいった>、<そして『蒲田行進曲』でな、翌年の再演、そして二年後の三ヶ月に亘る解散公演でも、それは繰り返された>。彼らは当時、26〜27歳である。

同時に、「蒲田」は進化していく。 1981年、小説版の「蒲田行進曲」が発表される。そして、舞台における再演「銀ちゃんのこと〜蒲田行進曲より」が紀伊國屋ホールで上演される。ここで、風間杜夫の銀ちゃんが誕生する。さらに、「蒲田」は行進し続ける、小説版が直木賞を獲得するのである。

長谷川の著書によると、受賞記者会見を終えたつかは、長谷川、平田、風間らを前にして、こういう。<「よし!おまえらもう心配するな。お前らのガキが大学出るまで、全部俺が面倒見てやる。これから金がガンガン入ってくるからよ!」>。つかこうへいが、大部屋俳優を率いる「銀ちゃん」に重なる。

さらに、「蒲田行進曲」は、小夏役に松坂慶子を起用しての映画化の話が動き出す。本書によると、「銀ちゃん」と「ヤス」の配役には紆余曲折あったようだが、最終的に風間杜夫・平田満となる。

映画の公開は1982年10月、9月から始まる紀伊國屋ホールの「蒲田行進曲」は、つか劇団の解散公演となるが、こうして全体像を見ると、“解散“は必然だったように思える。「銀ちゃん」は風間と加藤健一のダブルキャストであったが、二人をついに受け止めたのが、舞台では初役の平田満であった。全てが、クライマックスに向けて動いていた。「蒲田行進曲」の最後、ヤスの「階段落ち」により、役者・関係者そして観客も、つかこうへい=「銀ちゃん」から解放されるのである。フィナーレで根岸季衣を中心にし、出演者全員がタキシード姿で登場する。あれは、そんな祝祭だったのだ。

そんな完璧な舞台を目にした私は、その後の再演には興味も湧かなかった。劇団は解散、私も社会人となり、私にとっての“つかこうへいとの時代“は一旦終了する。“あの“「蒲田」を見せられた私にとって、それは見事に完成された舞台であり、それをいじるということなど想像だにしなかった。しかし、私の知らないところで、つかこうへいは「蒲田」を改編していた。

それを、今回目の当たりにすることになったのだ。40年ぶりの「蒲田行進曲」である



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