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ヨーガ・ヴァーシシュタ -至高の真我-

2023年を振り返って、この1年間に向き合ってきたことが、そこかしこに散りばめられており、このタイミングで、自分自身に最も影響を与えた書籍を唯一だけ選ぶとしたら、これを選びたい。

実は過去に、数回読み始めてみたものの、心に響かないというか、読み進んで行けないという経験をしている書籍でした。しかし、2023年に出会った学びの場のおかげで、面白いほど心に染み入ることになり、自分の感性や知性に広がりを感じました。まだまだ探究の道半ばではありますが、この世界の、宇宙の真理に思いを馳せていきたいと思います。


””この聖典の中で何度も繰り返される「カーカターリーヤ」という表現がある。  カラスが椰子の木に降り立った瞬間に、椰子の実が落ちた。時間と空間の中では、この二つの出来事は関係しているように見えるが、実際には何の因果関係もない。  人生とはそのようなものだ。世界創造とはそのようなものなのだ。だが、自分でつくり出した論理の罠にとらわれた心は、「なぜ?」と尋ね、自分を満足させるために「なぜなら」と「~ゆえに」を考案したうえで、知的な心を悩ませる不都合な質問を都合よく無視するのだ。  賢者ヴァシシュタは、心を直接観ることを要求する。その動き、その観念、その論法、推測した原因と投影した結果、観られる対象、観る者、観ること──そして、それらが分割不可能な「一なる無限の意識」だと認識することを要求する。  それがこの聖典の特異性だ。それゆえ、この聖典は至高の真理であると自ら宣言するのだ。””


””ラーマ は語り続けた。 心が渇望で覆われると、無知の暗闇の中で無数の過ちを犯します。この渇望は、優しさや穏やかさといった善良で高尚な心の質を枯渇させ、私を無情で残酷な人間にしてしまいます。そして、その無知の暗闇の中で、渇望はさまざまな姿をとって、悪魔のように舞い踊るのです。 この渇望を抑制しようと色々な方法を試みるのですが、一陣の風が一本のわらを吹き飛ばすように、それは一瞬のうちに私を圧倒し、堕落させてしまいます。**無欲や無執着のような質を伸ばそうと願うのですが、ネズミが糸を噛み切るように、どんな希望も渇望が断ち切ってしまいます。それどころか、私は渇望という輪の中にとらわれ、救われようもなく回り続けるのです。**網にとらわれた鳥のように、たとえ羽があっても真我の知識という目的地へ羽ばたくことさえできません。たとえ甘露を飲み干したとしても、渇望が癒されることはけっしてないのです。””


””**この渇望の特徴は、方向性を持たないことです。それは狂った馬のように、私を今、この方向へ向かわせたかと思えば、次の瞬間、別の方向に向かわせます。**そして、私たちの目の前に、息子、友人、妻、その他の人間関係という広大な網の目を広げるのです。 英雄でありながら、渇望は私を臆病者にし、目がありながら、渇望は私を盲目にし、喜びにあふれても、渇望は私を惨めにしてしまいます。渇望は恐るべき悪鬼です。束縛と不幸の原因は、この恐るべき鬼である渇望にあるのです。それは人の心を破壊し、妄想を引き起こします。この鬼に取り憑かれ、人は手にとどく快楽さえ楽しめずにいます。幸福を得るために渇望しているはずなのに、この渇望は幸福も人生の充実ももたらしません。それどころか、それはあらゆる不運や無駄な努力に私を巻き込みます。幸運と不運を上演し続ける人生という舞台の上でさえ、この渇望はベテラン俳優のように善良で高尚な演技もできず、ことあるごとに敗北と挫折に苦しみます。それにもかかわらず、それは舞台の上で踊ることをあきらめないのです!””


そうなんですよね。僕自身の半生は、この手の渇望に塗れ狂って来たとも言えます。ただし、この渇望感のようなものによって高いエネルギーを燃え滾らせることが出来ているため違和感がありながらも手放すことが出来ずに生きてきたようにも感じます。


長らく不安定だった会社が、パートナーの皆さんの力のおかげもあり、比較的安定期にある中で、娘という尊い存在と触れ合うことで、ただただ満たされることのない渇望感によってエネルギーを漲らせ続ける人生から離れられそう(離れたい)と感じる日が続きました。


””もう一人の解脱の門番は、「満足すること」である。満足の甘露を飲み干した人は、感覚的快楽を求めようとしない。この世のいかなる喜びも、すべての罪を拭い去る「満足」ほど快いものではない。  満足とは何か? **求めても得られないものへの願望を放棄し、求めずして得たものに満足すること、そのために得意がることや憂鬱になることもない──それが満足である。自己に満足しないかぎり、人は悲しみに支配されてしまう。**満足が生まれると、清らかなハートが花開く。何も所有せずに満足する人は、世界を所有するのだ。””


結果的に、自身に満足することが出来ず、「もっともっと」と足りないものを埋め続けようとしている自分に辟易しながらも、ふとした瞬間に、すでに僕自身はとてつもなく満たされているのではないか、と感じるようになって来ました。同時に、満たされると、頑張る理由が見つからないというか安定志向に陥っていくようも感じました。


””満足は最大の報酬だ。サットサンガは目的地までの旅路の最高の同伴者だ。探究精神はそれ自体が偉大な叡知であり、自己制御は無上の幸福なのだ。もしあなたがこれら四つすべてにたずさわれないなら、一つだけでも実行しなさい。それらの内の一つを誠実に修練すれば、他の三つもあなたの内に見いだされるだろう。そして、自然とあなたの内に最高の叡知が湧き起こるだろう。これらの高尚な特質の助けを借りて、心という野生の象を飼いならすまでは、たとえあなたが神や半神半人になったとしても、「至高なるもの」に近づくことはできない。””


それで良いじゃないか、という(自分の内外からの)声に右往左往しながらも、僕自身は、今このタイミングの僕自身は、程よい充足感をしっかりと感じ、同時に、自分のためにも、他者(ひと)のためにも、やりたいことをもっとやっていきたいと、純粋に渇望し熱望しているのです。一見、充足と渇望は両立できなさそうですが、これをやっていきたいと決意しています。


””解脱(モークシャ)とは、すべての精神的条件づけ(ヴァーサナー)を完全に、跡形も残さず棄て去ることだ。精神的条件づけには二種類ある。純粋なものと不純なものだ。不純なものは再誕生の原因となる。純粋なものは人を再誕生から解放する。不純なものとは、無知と自我意識だ。これが再誕生という木の種子なのだ。””


””去世からもたらされた精神的傾向には二種類ある──純粋なものと不純なものだ。純粋なものはあなたを解脱に導き、不純なものは困難や問題を招く。あなたは生命力のない物質的身体ではなく、意識そのものなのだ。あなたは自分以外の何ものからも行為をするよう駆り立てられてはいない。それゆえ、あなたには不純なものよりも純粋な潜在的傾向を強めることができるという自由があるのだ。 「永遠の善へと至る道を、たゆまず歩き続けなさい」と聖者たちは主張している。 己 の試みの成果は自己努力の強烈さに相応し、運命も神もそれをくつがえせないことを賢明な探究者は知っている。実際、何であれ人がこの世で得るものは、そのような自己努力の結果なのだ。悲しみに沈んでいるとき、人々は「それはあなたの運命なのだからしかたありません」と言って慰める。それでも、人は旅をすることによって外国へ行き、食べ物を口にすることによって空腹を満たすのであって、運命によってではない。これは明白なことだ。誰も運命のようなものを見たことはない。だが、いかに(善または悪の)行為が(善または悪の)結果をもたらすかということは誰もが体験している。””


純粋に、自分自身が望む、したいこと、やりたいことに順々に、深い充足感と、健全な渇望感に満たされながら、自然体のエネルギーを滾らせ、自分と他人(社会)の喜びが重なることに命を使っていきたいと思います。力まず、肩肘張らず、無理なく、ゆるく楽しく。


””「人は心以外の何ものでもない。心は全世界だ。心は大気圏、空、大地、風だ。心は偉大だ。心が愚か者だけが愚か者と呼ばれる。身体で死んで知性が失われたとき、その遺体を愚か者と呼ぶ人はいない。心が見るとき眼が生じる。心が聞くとき耳が生じる。他の感覚器官においてもそれは同様だ。それらをつくり出すのは心なのだ」””


””「この空っぽの物質的身体のどこに「私」と呼ばれるものが存在するというのか? ラーマよ。実際は「私」や「私のもの」などといった概念はまったく存在しない。ただ一なる真我だけが真理なのだ」””


””「ラーマよ。ただ心だけがこのすべて(世界の現れ)になる。そして心が癒されたとき、世界の現れもまた癒されるのだ。この心が思考機能によって身体と呼ばれるものを魔法のように生み出す。心が機能しないとき、身体のようなものは存在しない。それゆえ「対象物を知覚する」という心理的な病の治療が、この世界で最高の治療なのだ。心は妄想を起こし、誕生と死という観念を生み出す。そして、それ自身が生んだ想念によって心は束縛され、それから解放されるのだ」””


””意識が存在するゆえに、世界は存在する。世界は意識の身体なのだ。そこには何の分離も、相違も、区別もない。それゆえ、宇宙は実在だとも非実在だとも言える。意識の本質が宇宙そのものの本質であるため、宇宙は実在だと言える。また、宇宙は意識から独立して存在するわけではないため、宇宙は非実在だとも言えるのだ。  だが、「宇宙が非実在だから宇宙の原因である意識もまた非実在だ」とは言えない。そのような言明はただの無意味な言葉の集まりでしかない。なぜなら、それは私たちの体験に反するうえ、意識の存在を否定することはできないからだ。””


””解脱とは、そのような宇宙の完全な非存在性を認識することです。これは、単に自我と宇宙の存在を否定することとは違います! 後者は半分の知識でしかありません。解脱とは、このすべてが純粋意識であると認識することなのです。””


””それは両極の中間にあり、その中間自体も両極面を持っている。全宇宙は意識の戯れの投影だ。この宇宙の多様性のように、それはそれ自体の中で分割されているように見えるが、実は分割されていない。””

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