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柑橘の実

A1
 石畳の道にひとつ、柑橘の実を置いた。
 彼女が必ず気がつくように、道の真ん中に、目立つように置いた。
 沈黙を守る石畳に映える橙色の果実はすっぱくて甘い、まだ見たことのない土地の匂いを辺りに散らしていた。
 あの柑橘の実はなんて呼ばれていたっけ。ぼんやりと考えながらいつもお世話になっている蕎麦屋の軒先で彼女が来るのを待っていた。
 この道をよく通る人は、路上にポツンとある柑橘の果実をみても、ふっと笑ってからこちらに目をやるだけ。そんな人たちに、僕は軽く会釈する。
 道の果実に、足を止めて思案する人もいる。でも、みんな答えが見つからないまま再び歩き始める。午後には、道に落ちていた柑橘の実のことなんて忘れてしまうだろう。
 そんなことを考えながら、僕は彼女が現れるのを待っていた。
 彼女は、ここらに住む学生で、電車に乗って少し遠くの大学に通っているらしい。朝ごはんを食べる前に、家からそこのお寺までジョギングするのが彼女の日課だ。
 そして、そんな彼女に一つ果物を用意してここで見守るのが僕の日課だ。
 そろそろ、いつもの時間。
 僕は、彼女とのささやかな逢瀬への期待を、この柑橘の実に込めて置いたのだ。

B1
 朝のジョギングは、心が落ち着きます。
 昨日のサークル飲み会で、お酒に酔った勢いで二年間想いを寄せ続けた先輩に告白し、あっけなく撃沈したことも、走っている間は忘れていられる。
 草木の間を通り抜けた朝のやわらかい風が、私の頰を撫でて、少しこそばゆい。
 草の匂い、花の匂い、それにおいしそうな料理の匂い。これは蕎麦の出汁の匂いですね。お腹が空きました。
 気がつけば、いつものお蕎麦屋さんも目の前でした。目印は灰色の石畳に映える果実の色。今日はオレンジのようです。
 お蕎麦屋さんの前にたどり着き、果実を拾い上げてみると、あら、デコポン。楕円球体の体から、可愛らしくぽこっと。
 香りを嗅いでみました。寝ぼけた早朝の頭を覚ます酸味と甘みの香りです。
 さすが、ナイスチョイス。
 お蕎麦屋さんの方を向けば、軒下にはいつものワンちゃんがこちらをじっと見ていました。
「おはよう、ポチ。いつもありがとう」
 ポチというのは、私が勝手に呼んでいるだけなのですが、この子の名前です。
 いつも、私がランニングする早朝に果物を一つ置いておいてくれる、気がきくわんころです。早朝で眠いときはワンっと一喝励ましてくれて、悩み事があるときは何も言わずに聞いてくれる紳士なワンちゃん。
 私は、ポチに近づいてそっと頭を撫でてやりました。
 ポチは気持ちよさそうにクーンと鳴いた後、じっと私の目を覗き込んで来ました。
 何か悩みがあるんだろう。聞いてやるぜ。言って見な。ってところでしょうか。
 じゃ、お言葉に甘えて。
「あのね、ポチ。昨日、ちょっと失敗しちゃってさ」 
 
 ポチは、私の話が終わるまで何も言わずにじっと耳傾けてくれました。
 そして、ワン。と大きく吠えました。
 お前の悩みなんて、大したことないさ。人生って長いだろ。
 そう言っている気がして、なんだか胸のところが暖かくなりました。
「ポチ、きいてくれてありがとね」
 お礼を言うと、ポチはぷいっとそっぽを向いてだんまり。ポチは、照れ屋さんなのです。
 よし、っと気合を入れて立ち上がります。
「バイバイ」
 そう言って、私はまた走り出したのです。

A2
 短い逢瀬も終わってしまった。
 彼女はとてもいい子だ。
 だから、とても心配になる。
 僕が人間だったら、ずっと彼女のそばにいられるのに。いつもそう思う。
 でも、僕は犬だ。
 彼女の悩み事を聞くくらいしかできない。
 そんな自分がじれったくて、だけど、毎日彼女に会えることが幸せで。
 だから、犬でよかったって。犬に生まれてよかったって思う。
 ガラガラ、と蕎麦屋の戸が開いた。開店の時間だ。
 店主に朝の挨拶。
 よし、今日も働くか。
 一日一つ果実を恵んでくれる店主のために、今日も精一杯看板犬をつとめよう。

C
 俺が十五の時に親父は交通事故で手が動かなくなった。
 歴史あるこの店を継ぐために高校三年の夏休みに学校をやめて、そこからみっちり修行した。手が動かなくても老舗の蕎麦屋の店主らしく、後継者に技術と秘伝の味を叩き込んで、去年の夏に旅立った。
 今じゃ、俺がこの店の店主だ。
 でも、まだまだ親父にはかなわない。だから、練習。練習。
 そうやって、いくら練習しても、あの味にはならなかった。
 俺は、蕎麦屋には向いていないんじゃないか。
 そう思いつめていた時、俺の店に一人の少女がやって来た。
 なんでも、ここらに住む貧乏学生で、年に何回かこの店で蕎麦を食べるのが数少ない贅沢なんだと。
 少女は、俺の蕎麦を食べて、おいしい、おいしいって涙まで流しやがった。
 さすがに、ちょっと引いたが、それでも嬉しかった。
 俺の蕎麦をこんなにおいしそうに食べてくれるやつがいる。
 そう思うだけで、修行は捗った。
 そして、俺はこの少女に恋をしたんだと思う。
「自分の愛した人に食べてもらう。そう思って打ちなさい」
 当時は妻に逃げられた男が何言ってるんだと思っていたけれど、今になって親父の教えが身にしみてわかった。
 俺は、彼女に恩返しをしたかった。
 だから、彼女が朝のランニングでここを通る時に、ポチを使って果物を一日一つあげている。
 ポチというのは、俺の親父が名付けた犬の名前だ。
 きっと、彼女は果物が俺からのものだって知らないだろう。
 でも、いいんだ。これでいい。
 いつかまた、俺の蕎麦屋に来て、おいしそうに食べてくれる。
 それだけで、十分だ。

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