まだ春と呼ぶには寒い。夜の散歩に興じる人がぽつりぽつりといる公園の、少しくたびれたベンチの上で、寒さを言い訳に君の隣に座っていた。僕の左手の指はもれなく君の右手の小さな指と絡み合っていて、温もりを非効率に交換している。僕たちは空を見上げていた。雲は見当たらない。 「オリオン座」 君がつぶやくと、好き勝手に、控えめに主張していた星たちが、ぱっと背筋を正して見えた。僕の視力では、左下の星が見えない。不安定でいまにも崩れ落ちてしまいそうなオリオンだった。 そのことを彼女
月の光に照らされて天使みたいに僕の隣で眠る君が、このまま死んでくれていたらいいのに。 夜の女王は噂通りに無慈悲なのだろう。君の白い腿に浮かぶいくつかの痣が、月の光を吸い込んでいる。 夜がもっと長ければいいのに。僕たちが人として生きられる時間は、一日の半分もない。世界を隔てる薄い扉の向こう側に車の気配がするたびに、固い床の上で身をすくめてしまうような夜でも、僕たちは人らしく生きていられる。 僕と君だけがいる世界。あいつのいない世界。音のすべてを君の呼吸音が占めている。
湿気ったワンルームマンションから彼女を連れ出し、23時の肌寒い住宅街を二人、静かに歩いていく。横目に過ぎる一軒家、アパートは息を潜め、生者の気配を感じない。月のない夜だ。控えめな星は、この中途半端な都会では見えない。しかし、夜空はいつもより繊細だった。度のあっていない眼鏡越しでも感じる、触れればガラガラと音をたてて崩れ落ちてしまいそうな、そんな夜だった。 いや、夜に最後があるなら、きっと静かに崩れ落ちていくのだろう。冷たい空気が肺を満たし、なんとなく許された気分になる。
鉛筆を削る妻の横顔に見惚れる。手は軽快なリズムで、しかし確かな安定をもって、鉛筆を鋭く、鋭くしていく。時計はすでに17時を指していた。木を削る音、秒針の音、そして僕と彼女の呼吸音だけが、淀んだ美術室の音の全てを占めていた。 高校の美術室を再現したこの部屋は、新築の我が家とは思えず、時の澱が溜まっているように感じた。というのもこの美術室は、廃校になる妻の母校から、そっくりそのまま運んできたものだからだ。壁のシミ、木製の作業机に刻まれた相合傘。誰かが残していった未完成の静物
A1 石畳の道にひとつ、柑橘の実を置いた。 彼女が必ず気がつくように、道の真ん中に、目立つように置いた。 沈黙を守る石畳に映える橙色の果実はすっぱくて甘い、まだ見たことのない土地の匂いを辺りに散らしていた。 あの柑橘の実はなんて呼ばれていたっけ。ぼんやりと考えながらいつもお世話になっている蕎麦屋の軒先で彼女が来るのを待っていた。 この道をよく通る人は、路上にポツンとある柑橘の果実をみても、ふっと笑ってからこちらに目をやるだけ。そんな人たちに、僕は軽く会釈する。 道
A1 ベントラー、ベントラー、スペースピィプル、スペースピィプル。 夏の夜。いい歳した男女がお互いに手を繋ぎあって円になって回っている。 ベントラー、ベントラー、スペースピィプル、スペースピィプル。こちら地球。応答願います。 教養棟の屋上。ユーフォー研のみんなが天を仰ぎ大真面目になって宇宙人との交信を試みていた。 馬鹿みたい、って誰も思わないのかな。私が大学に入ってから4ヶ月。毎月行われる交信会は未だ成果を出せない。 「よし、今日はここらでやめにしようか」 ユー
去年のクリスマスも一人だった。一昨年も、その前も。 「雪の降らないクリスマスを見てみたい」 昨年、大学から駅へ向かう道で、ちょうど同じ時間に講義が終わった先輩と歩いていた僕は、そう言った記憶がある。 「そう? クリスマスはやっぱり白い方が好きだな」 氷点下の風に吹かれて、肌の白さと頰に呈した珠色は、顔の輪郭よりもはっきりと思い出せる。雪の降る街で生まれ育った彼女は、今頃、白くないクリスマスを過ごしているだろう。 飲みかけのラム酒ロックを持ったまま、窓辺に寄って凍
木から落ちた紅葉の方がきれいに見える人生だ。秋雨は夏の残り香を洗い流すようなものではなく、むしろ冬を溶かしたような冷たい雨だった。カラフルに染まった紅葉を散らしながら地面に模様をつけていく。水たまりの波紋が弱まっていく様子を見ているうちに一限の講義が始まる時間になっていた。安物のビニール傘をたたみ、手近な木に引っ掛けた。縁があればまた会えるだろう。 講義棟へと向かっていた足を、駅の方へと向け進んだ。時に水たまりに足を突っ込みながら、寝坊したのであろう学生のまばらな波に逆