くるみ割り
月の光に照らされて天使みたいに僕の隣で眠る君が、このまま死んでくれていたらいいのに。
夜の女王は噂通りに無慈悲なのだろう。君の白い腿に浮かぶいくつかの痣が、月の光を吸い込んでいる。
夜がもっと長ければいいのに。僕たちが人として生きられる時間は、一日の半分もない。世界を隔てる薄い扉の向こう側に車の気配がするたびに、固い床の上で身をすくめてしまうような夜でも、僕たちは人らしく生きていられる。
僕と君だけがいる世界。あいつのいない世界。音のすべてを君の呼吸音が占めている。
ぐぅっと、腹の虫が鳴った。気のせいか、君の頬が朱を帯びる。
「もしかして起きてる?」
コクコクと3ミリほど頷くのが見えた。
「何かあったかな」
立ち上がり、台所へ向かう。フローリングの床がギシギシと音を立てた。台所の一番奥、冷蔵庫を開けると、三段目の発泡酒を除いて、食べ物らしきものは入っていない。舌打ちをして、少し乱暴に扉を閉める。バンっと思ったより大きな音がでて、心臓が跳ね上がった。
「何もなかった」
君の隣に戻って報告する。
「そうね」
君が返事をする。久しぶりに君の声を聞いた気がした。
カーテンは開け放たれている。月はみるみると西へ傾いていき、世界の終わりを予告する。
「夏になったら、」微かに空気を震わせる君の声「山に行こう」
「海じゃなくて?」
「水着は着たくないから」
「そうだね。山に行こう」
僕たちに茜色は似合わない。西向きの窓から見える空も、段々と明るくなっていく。
左手が君の冷たい右手に触れる。握らない。けれど、一ミリ四方にみたない接触は、現実に対する確かな抵抗だ。
タイヤが砂を踏むパチパチという音。家主の帰宅を告げる。
鍵が差し込まれ、ドアノブが捻られる。それがいつもの合図で、僕たちは人形になった。
君の右手の感触が現実なのか分からなくなった。
洒落た一文目を考えついた方https://mobile.twitter.com/yakutatazu1000/status/1105508380624355328
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