月は一つでいいよ
まだ春と呼ぶには寒い。夜の散歩に興じる人がぽつりぽつりといる公園の、少しくたびれたベンチの上で、寒さを言い訳に君の隣に座っていた。僕の左手の指はもれなく君の右手の小さな指と絡み合っていて、温もりを非効率に交換している。僕たちは空を見上げていた。雲は見当たらない。
「オリオン座」
君がつぶやくと、好き勝手に、控えめに主張していた星たちが、ぱっと背筋を正して見えた。僕の視力では、左下の星が見えない。不安定でいまにも崩れ落ちてしまいそうなオリオンだった。
そのことを彼女に伝える。
「いいな」
「なんで?」
「君は眼鏡をかければ、私と同じ世界を見られるでしょ? 」
「はっきりと見えた方がいいとう思うけど」
「えい」
急に目の前を物体が横切った。瞬間、世界は情報量を減らし、光の球体で再構成される。彼女が僕のメガネを取ったのだと気がついた。
「例えばあれは、どんな風にみえる?」
ぼんやりと彼女の腕の伸びる方向を向けば、白色の街灯を指しているのだとわかった。
「光がね、六、七、八かな、九かも。明かりが九個くらいの丸い光の集まりに見えるよ」
「へぇ。素敵だね」
彼女は、手に持っていた僕のメガネをかける。
「うわ」
「やめときなよ。目、悪くするよ」
「私、メガネ似合わないんだよね」
僕の話を聞かずに、メガネを老眼鏡のように鼻先までおろし、こちらを向く君。
「かわいいけど」
「君だけです。そんなこと言うのは」
笑った口を隠すように、顔を背けてしまう。そして、メガネをサングラスのようにおでこの上まで上げて、再びこちらを向く。いたずらを思いついたような、魅力的な表情だった。
「じゃあさ、月は? どんな風に見えるの?」
「月?」
僕は暗くなった空を仰いで、光の塊を探した。それはちょうど、僕たちの真上にあって、街灯より暖かい光を僕たちに注いでいた。
「同じだよ。九個くらいの丸い光の集まりに見える」
「そっか。んー」
真横を見れば、君と目があった。
「月は一つでいいかな」
僕の左手を握る力が、少し強くなった。
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