おしゃべりな石たちに会いに
石はおしゃべりである。
なにを言い始めるのか気でも狂ったかと思われた方もあるかと思うが、ほんとうにそうなのだ。
石というのは不動というか不変というかどっしりとして動かず安定しているものの代表であろう。
「石のように押し黙る」
それが石のイメージではないか。
ところが山を歩いて磐座の前で法螺貝を立てたり能管を打ったりしていると、法具(楽器)が石と共鳴して、ある意味会話のようなインタラクションが始まるように感じるときがある。
こちらの存在が息吹が石を震わせ。
石の存在がこちらを震わせ。
それがその場において混ざり合ってその場その瞬間にしか生じない場を生むのだ。
割れてる。苔むしている。乾いている。蔦におおわれている。花崗岩。雲母。大木が抱いている。隆起したモノ。隕石だってあるだろう。
それぞれがそれぞれの波動を出し、それぞれの個性を謡っている。
聴こえないはずの聲に耳を澄ます。
その時石はこちらに心を開く。(様に感じる)
石が視てきた風景。視てきたモノガタリ。
聴いてきた音をじわりじわりと霧のように提示してくる。
こちらの貝も能管も自分自身の身体もそれに反応しておしゃべりを始める。
「あのねあのね」もう騒がしくて騒がしくてたまらない。
そんなストーリーをそれぞれ持った巨大石がここには無数に点在するのであった。
石の聲に耳を傾ける。
旧字の聲という文字には耳が入っている。
全身を耳にして石のおしゃべりを聴く。
石が歌を謡う。石がこちらを揺さぶり始める。共鳴して音を立て始めるわたし。
身体は音を立てるための器なのだ。
ええと。磐座群が素晴らしすぎて神々しくて感動していて興奮もしていてうまく書けないのだが…
そういう体感を3時間あまりにわたって感じながら山をただただ歩いたわたしだ。
イイ一日だったな〜。
不言様=おいわずさまという言葉がある。
その神聖なる場で見聞きしたことものを言葉にしない。
禁忌のようなモノであろう。
例えば、九州宗像大社の沖ノ島はそのような掟によってその存在も全体像も知られること無く守られてきた。
ここはその島を超えるスケールの磐座群だ。
祭祀の気配もざわざわと残る。
この場所が公に知られるようになったのは昭和の初めだという。
きっと不言様だったのであろう。
地方創生の予算で、「巨石パーク」と命名され、このようになっていると聴いた。
石の想いはいかに。
読んでいただいてありがとうございました。
行者九拝
https://www.city.saga.lg.jp/main/845.html
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