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【生物】至難なり 文句も言わず 生きるのは

 「いいか、世の中にはオマエたち以外にも色んな生き物がいることを頭に叩き込んどけよ!オマエたち、10代の今だって『あの授業が退屈だ』とか『この先生がイヤだ』とか不平不満ばっかり垂れ流してるだろ。それな、20代・30代になっても変わらないぜ。人と場合によっては悪化するかもしれない。『あの仕事が退屈だ』とか『この上司がイヤだ』とか、そんな感じで死ぬまで文句言ってる。動物は文句を言わず、ただ生きている。生まれながらにして“完成品”の動物は、文句を言う必要が無いからな。馬も鹿も生まれてから1~2時間で歩けるし、すぐに自分の力でメシを食えるようになるし、ちゃんと与えられた務めを果たして死んでいく。人間だけが未完成のまま、自分にも他人にも見苦しい贅沢を望み続けて死んでいく。馬や鹿を『馬鹿』呼ばわりしたら罰が当たるぞ。そりゃ『あの授業は、あの仕事は、なぜ退屈なんだろうか』ってことも不思議だろうけど、授業も仕事も所詮人間の作り物。それよりも『人間は、なぜ色んな細胞をフル稼働させているんだろうか』って事のほうが、よっぽど神秘のベールに包まれているんだぜ。
 いいか、何を目指して、わざわざ高校で生物を勉強しているのか?それは『生き物の素晴らしさを知る』ということだ。生物は植物と動物に分かれる。植物で40~50万種、動物は100万種、うち80%は昆虫。これらの仕組みを全て学ぶのは骨が折れるぞ。では、なぜ骨を折ってまで学ぶのか?それは『生きるとはどういう事なのか?人生とは何か?という疑問に真剣に向き合い、命の無駄遣いを防ぐため』である。様々な見解があるだろうけど、生物の授業の目的はこれに尽きるとオレは捉えているよ。」――この先生、つくづく厳しかったが、つくづくカッコよかった。
 
 会社の激務にやや疲労が蓄積してくると、聊かなりとも気を紛らわせようと、私は月曜の朝の通勤にいつもの急行を避け、1本遅い快速に乗ることとしていた。停車駅が多くなるというたったそれだけで、目に飛び込んでくる風景が変わり、本当に聊かではあるけれど五感の調子が切り替わるのだ。もともと時間に余裕をもって家を出発していたから、急行を快速に替えたところで遅刻の心配は無い。
 この快速に乗ると、急行では通過してしまう駅から、決まって不可思議な格好の少女が同じ車両に乗ってくる。おそらく何処かの高校に通う生徒だろう、英語の教科書に読み耽っている。すでにこの時間帯ともなれば部活の朝練でも無いだろうに、なぜか制服ではなくジャージ姿。それも全身を覆うようなフード付きのもので、いつも同じ色、同じ柄。「まあ、学校で着るものなんて毎日同じようなもんか」と受け止めていたが、振り返れば、昨年の真夏に見かけた折も――生地こそ多少は薄手だったかもしれないが――全くと言っていいほど似た装いだった。「日焼けがキライなのかな」なんていうレベルでは無い覆い方だったのだから、あの時点で違和感を抱いてもおかしくはなかったのだ。けれど、あまりジロジロ見ても失礼だし、痴漢と勘違いされても困るし、宗教上の理由かもしれないし、とにかく敢えて余計な推察を避けてきたところもある。否、今にして思えば、私が20代の頃は「クールビズ」というものが世間に確立される前で、通勤する会社員は真夏だろうとネクタイを締めていたし、ジャケットも着用していた。則ち、私自身も長袖長ズボンで全身を覆っていたわけだから、違和感を抱きようが無かったのかもしれない。二人の違いといえば、フードの有無くらいのものだ。・・・そう、彼女の秘密はフードにあったのだ。
 
 当時の私は、まるで奴隷のようなサラリーマン生活への不満が鬱積していた。ウチは腐っても大企業なので、年収はマシな部類だった。が、「クールビズ」と同様、「コンプライアンス」というものも世間に確立される前だったので、どの会社でも不払い残業が横行していた。セールスは出来高払いの裁量労働選手なのだから、“自主トレ”に手当を支給しないのは当然といった風土に涙を呑んでいたのである。とは申せ、何か1つでも頭抜けた成果を出せば評価が上がることは明らかだったから、納得いくまで働きたかったのも事実。悲しいかな所定外労働に“自主トレ”の要素が皆無だったとも言い切れないところを会社側に利用されていた。
 実際に30代以降、評価が上がった後の私は、さすがに給与明細の額面を見て「まあ、これなら正社員で良かったな」と実感できるものもあったが、入社して数年間は地獄そのもの。「これならバイトのほうが稼げる」と真剣に考えていた。時代はまだ大卒の初任給が平均20万円弱だったろうか、賞与は平均50万円程度だったろうか。いくら当社がこの平均水準を超えているといっても、元々食品メーカーの賃金相場なんて他業界に比べて相対的に低位の状況下、高が知れていた。そんな事は百も承知で入社したものの、総年収から税金と社会保険料その他諸々を差し引いて、手元に残った金額を年間の総労働時間で割ってみると、某大手ハンバーガーショップの時給、それも繁華街ではなく郊外店舗の、しかも試用期間中の時給を、百円も下回っているではないか。
 休日のサービス出勤も習慣化していた。毎週に及べば、麻痺してしまうのだ。そうなると「昔のサラリーマンは土曜も通常労働日だったではないか」と自らに言い聞かせるも、休日を文字通り休日として過ごせる人々を筋違いに恨みはじめる。街で困窮者への支援を呼びかける募金活動を発見すると、「こっちは何が面白いのか、タダ働き同然の毎日だ。カネが要るんだったら、俺たちみたいに死ぬほど働いてみろ。その箱に集まったカネのほんの一部でいいから、この気の狂った過労サイクルから、俺たちのほうこそ救済してほしいくらいだ。」と遠慮なく冷たい眼差しを向ける。きっと精神的に追い詰められていたのだ。心療内科医から診断書を貰うような症状は見られないというだけのことで、とても平常心と呼べた日々ではない。そんな土曜出勤ですら終電を逃した挙句、個室ビデオで一晩明かすこともあった。あの薄暗い部屋独特の芳香剤と紫煙の入り混じった悪臭をぷんぷんシャツから漂わせつつ、日曜の朝に家へ戻れば眠るのみ。結果的に日曜も台無しにする。
 こんな生活なものだから、顧客には生意気にも「季節の提案」なんかを商談のネタに使う傍ら、私自身は徐々に季節の移ろいに疎くなっていく。居場所は自宅と会社と得意先のみ。行楽や娯楽といったものが全く無い。「桜が満開を迎え、方々春を楽しむ客で賑わっていた」という巷の様子にすら、テレビのニュース映像を視てから漸く「そうか、この土日には桜が咲いていたのか」と気付く。画面上に流れる春模様を恰も遠い国の光景であるかのように朦朧と眺め、この年の凡そ30秒の花見が終わる。ふと私は「父が生きていたら、どうだったかな」と想像する。父は料理人だったから、夜は遅かった。けれど、たとえ23時に帰宅しようとも、玄関で靴も脱がずに開口一番「夜桜見物に行くぞ!」と、私を近所の公園へ誘っていたに違いない。職人気質で仕事には拘っていた人だったが、労働に束縛されることなく、目の前の関心事を玩味するライフスタイルを貫いていた人だった。今の私にはこの「ライフ」の欠片も無いと我が身を嗤う。
 働くようになってから失ったのは、時間だけでない。とりわけ大きな1つは「許容範囲」というやつだ。朝っぱらから2時間も会議をして、当事者全員で話し合って決めたルールが、夕刻には上司の一言で変更されてしまうような会社に居るうちに、他人を信用してはならないことを学習してしまう。朝令暮改が日常茶飯事の環境に身を置けば、積極的に性悪説を支持してしまうような人間になるのが必定というもの。おまけに、私のほうもガキそのものだった。周囲からは専ら社交性に富んでいると驚嘆されるくせに、一人で行動するのが好きな性分も併せ持っているが故、だいたい組織で終わりなきビジネス競争に興じるのが苦手なのである。せめて人間関係くらいは「金の切れ目が縁の切れ目」を気にしない縁の中で暮らしていきたいと願うばかり。ところが、世の中で信用できるものを順位付けしてみれば、いつの間にか金銭のランクが急上昇している。つい数年前の学生時分までは「カネ稼ぎよりもヒト稼ぎ。人こそ宝物とせよ。」と心得ていたにも拘らず、人を許容する広さなるものがどんどん縮小していく。
 果たして私を裏切らないのは、まず母、次にお金、そしてお酒、この3つくらいではないかと、独りウーロンハイを飲むも、これが苦くて堪らない。お金を稼ごうとしても、現状、母のパートの時給のほうが高いのだから、酒が旨い訳が無いのである。これで親孝行をしようと目論んでいる自分に落胆していた。
 
 「いいか、生物を勉強する上で、取り組むテーマは主に2つ。テーマの1つ目は『いかに生命は進化したか?』だな。地球の誕生は60億年前、最初の生命は35億年前――細菌のようなものだな。で、猿人が200万年前。つまり、オレ達は地球上に住む生命体の中では、ド素人の初心者、ペーペーの新米なんだって事だな。そういう事が解ると、テーマの2つ目は『そもそも生命とは何か?』っちゅうことになる。初歩的な知識として押さえるべきは、生命の特徴4点だな。『自己複製する』『遺伝子を持つ――デオキシリボ核酸だな。DNAだな。』『細胞で作られている』『刺激に反応する』だな。」――思い出した!先生には何か特徴を掴んだ渾名があった筈なのだが、そうそう、彼は「DNA」と呼ばれていたのだった。読み方は「ディーエヌエー」では無い。「ダナ」である。授業の途中で昂揚した途端、語尾に「だな。」を頻発するからだ。
 「どんな複雑な多細胞生物でも、はじめはほぼ同じような簡単なつくりをした1個の受精卵に過ぎない。これが細胞分裂を繰り返して、細胞の数を増やすと共に、細胞の形態や機能が分化し、個体の完成に至るわけだな。その過程を『発生』と呼ぶわけだな。発生には『初期発生』と『後期発生』とがある。初期は、受精後、胚葉(外・中・内胚葉)が形成されるまで――カエルでは神経版が形成されるまでを指し、後期は、胚葉形成後、親とほぼ同じ器官が形成されるまでを指すんだな。動物は種類によって体のつくりが異なっているが、発生のはじめは非常によく似た変化を行う。また、系統の近いものほど発生の様子が似ているから、発生の過程――即ち『個体発生』――は、その動物の進化の過程――即ち『系統発生』――と密接な関係があると考えられるんだな。
 卵細胞が分裂して細胞数を増やすことを『卵割』と呼ぶ。卵割の結果生じた細胞を『割球』と呼ぶ。多細胞生物の初期発生において、まだ独立生活が出来ない個体を『胚』と呼ぶ。動物の卵には多量の卵黄が含まれていて、受精卵はこの卵黄を養分として育つが、その時期の胚を言うんだな。
 次に卵の種類だ。主に3つ。1つ目が『等黄卵』。卵黄が少なく、卵全体に一様に分布している。等全割というやつだな。ウニとかヒトデとか哺乳類とかがこれに該当する。2つ目が『端黄卵』。卵黄が多く、植物極側――即ち卵の南極に位置する側――に片寄って分布している。不等全割あるいは盤割というやつだな。卵黄がやや多いのを『弱端黄卵』と呼び、カエルやイモリといった両生類がこれに該当する。卵黄が極めて多いのを『強端黄卵』と呼び、イカやタコといった頭足類、さらに魚類・爬虫類・鳥類がこれに該当する。そして3つ目が『中黄卵』。卵黄が多く、中心部に存在し、表面を細胞質が囲んでいる。表割というやつだな。昆虫類やクモ類がこれに該当する。」――この授業を受けて以来、私は回転寿司に行く度に、イカやタコの皿を取っては「強端黄卵か…」と呟き、ウニの軍艦は「等黄卵」を意識しながら噛み締めるようになった。ヒトは他の命を頂いて生きている。
 「ここから先は、実際にウニの発生を図で確認したほうが理解し易い。配ったプリントを見ろ。順番にいくぞ。①受精卵だな。受精膜が卵表から離れ、透明層が出来る。②第1卵割で2つの細胞になる。割球は透明層に包まれているから分離しない。その後、第2卵割で4細胞、第3卵割で8細胞、ここまでが割球の大きさが等しい『等割』で増える。③第4卵割で16細胞、第5卵割で28細胞、と『不等割』が続き、32~64細胞まで不規則な分裂でクワの実のような形になる。これが『桑実胚』だな。その後、④卵割腔形成、孵化、第一次中胚葉形成と『胞胚』がなされ、⑤原腸陥入が開始され、胚葉の分化が起き、第二次中胚葉と骨片が形成される。ここまで『嚢胚』だな。⑥原腸は傾いて外胚葉に付着し、開口して口が出来、原口のほうは肛門になる。これが『プリズム幼生』だな。⑦口と肛門が出来れば、プランクトン等をエサとして摂取し、独立生活が出来るようになる。これが『プルテウス幼生』だな。この幼生が変態してウニになるってわけだな。・・・おいおい、どうした、どうした、そんな複雑そうな表情して・・・そう!あんなに小さなウニでも、こんなに複雑!でも、こんなの序ノ口だぜ。誠に残念ではありますが、オレの授業はここから難解になる一方だよ。ウニの領域で躓いていたら、ヒトの仕組みなんて、どうやって簡単に説明しろっちゅうのよ。
 なっ、やっと理解しただろ!この世に人間として命を受けたって事だけで、十分奇跡的な贅沢なんだな。オマエたち、大昔はウニだったかもしれないんだぜ。まあ、そのほうが幸せだったかもしれないけど、目も耳も鼻も口も全部ちゃんと『発生』しているだろ。その口で美味しいウニを食することだって出来ちゃう。こんなにも満足な細胞を神から授かりながら、これから先もまだ、その口で『あの授業が退屈』とか『この先生がイヤだ』とか不平不満ばっかり垂れ流すのか?どうだ、少しは黙々と勉学に勤しむ気になったか?少なくとも規則正しい生活で健康を維持しようと努める気にはなっただろう。それが正しい命の使い道、それが人の生きるべき道というやつだな。」――私は「社会人」とやらに成って、オトナの仲間入りを遂げて早々、この有難きDNAの教えに背いていたのだった。
 
 スーツを2着買った。どうしても必要という訳では無かったのだが、彼方此方の紳士服店で常套句となっている「2着購入すると2着目は大幅割引!」という刺激に触れて「多めに持っておいても損はないか」と反応するのは必至。まさに生命の特徴の1つ、『刺激に反応する』の通りとなった次第である。「せっかく買ったスーツが勿体無い」と感じるだけで、それを着用するために会社へ通う足取りも若干軽くなる。「道具から先に用意すれば、一向に興味の湧かないゴルフも辞められなくなる」と幾度も唱えてアイアンセットを手に入れたのは、師も走る春待月のボーナスの支給日だったが、それとほぼ同じ理屈だ。
 「このスーツの後は、ゴルフウェアも買わないとならないのか。全く気乗りしない浪費ばかりだな。」と零す試着室で、袖を通す腕が不自然に震えているのを自覚する。寒さなどではない。季節は橘の咲く早苗月。購入しようとしているのは夏の背広だ。――確かに、あまりの忙殺に顔や躰の一部が痙攣することは前から屡々あった。が、この異変に私は何故か安堵する。「そうか、体を壊せばいいんだ。倒れてしまえば、もう会社に行かなくて済む。健康を害すれば、暫くは休める。」と、正気で思い付いたのだ。
 
 新しいスーツで月曜の朝を迎える。時代は受動喫煙防止策が常識化する前のこと。まだ急行停車駅のホームには数少ない喫煙所が残存していた。「もっと煙草で毒すれば、この頑丈な身もうまいこと病欠へと導けるのではなかろうか」と企てていたわけでは決して無いけれど、私は宛ら肺活量検査のようにして、重たい銘柄を吸引する。ヤニの味自体は口に合わなかったが、血管が収縮してクラクラする感覚に魅了されていたのだった。似た者同士が肩を寄せ合って“蛍”の光を灯し合う。そこに電車が到着すると、皆一斉に最後の一口を惜しむように深呼吸し、吸い殻にするには勿体無いほどの長さを残しても、それを無理やり灰皿へ投げ込み、朝から疲れ切っている躯体を車内へ投げ込む。社内では足並みを揃えられない連中が、こういう時だけは何かの儀式の如く、ピッタリと同じ動作をする。
 案外あっさりと煙草を止めてしまった今ならば容易に想像つくが、我々の乗り込んだ車内は鼻の曲がりそうな残り香だったと思う。その中で今朝もあの不可思議な格好の女子高生が英語の教科書に読み耽っている。すると、吊革に掴まる手が緩んだのだろうか、彼女がその大切な教科書を床に落としてしまい、急いで拾おうとした弾みに、あれだけ深く被っていたジャージのフードが捲れてしまったのだ。上りに比べれば、下りのラッシュは鮨詰の満員という程でもなかったので、体は動かせる。そこで「大丈夫かな」くらいの心配と「手伝ってあげようかな」くらいの親切心から彼女の様子を窺うと・・・決して煙草のせいではなく、一気に襲われた動揺で血管が収縮した。皮膚は月面みたいに浅黒く荒れ、側頭部の髪はごっそりと抜け落ち、耳から首筋にかけては爛れている。火傷だろうか、いや、表層だけでは無い。頭の骨格というか輪郭というか、目鼻口の位置もやや非対称というか、どうやら先天的な障害のようである。
 四肢のハンディキャップではない。顔のハンディキャップ。待てよ。この場合「障害」なのだろうか。顔の奇形に対しては障害者手帳が交付されるのだろうか。顔は第一印象として真っ先に気付かれるし、手足よりも遥かに目立つ。自分の醜く歪んだ見た目に幼い頃からずっと悩み続けてきたことだろう。恋愛は出来るのか、就職は出来るのか、人生の先行きを自問自答しては、傷付く心と闘い続けてきたことだろう。けれど、体の機能に障害を持っているわけではないという根拠で国からサポートを受けられないとしたら、そんな不条理があるだろうか。否、もし顔の奇形を「障害」として公的に認定してしまえば、それこそ却って差別と偏見というものに成り得るのだろうか。私はそんな事にばっかり考えを巡らせていた。
 しかし、この少女は然様な事は1ミリたりとも意に介していない態である。そうだ、そうだ。日本では“通常の”恋愛が出来なくても、日本では“通常の”就職が出来なくても、勉強ならば存分に出来るではないか。彼女が英語に夢中なのは、勉強しまくって、国際社会に羽ばたいて、英語コンプレックス甚だしい“異常な”日本の連中を見返してやろうという士気だろうか。いや、そんな腐った根性ではないな。いいや、たとえ僻みでもいい。動機なんて何でもいい。その教科書に注ぐ眼差しが輝かしい。その自己肯定感に溢れた行動が美しい。一方、私は美しい生き方をしているだろうか・・・いやはや何とも情けない。
 
 奇形の原因は未だ解明し切れていないらしい。染色体の異常とされる症例もある。妊娠初期の栄養や薬の影響だとされる症例もある。が、最先端の医学を以ても推測の域を脱しないところの少なくない研究分野だと謂うのである。なるほど、DNAの断言した通りだ。ウニの発生プロセスを理解するのも精一杯だった私に、どうしてヒトの仕組みなんて理解できようか。五体も五臓六腑も満足な状態でこの世に命を受けたって事だけで、十分奇跡的な贅沢なんだな。そのように弁えずしてどうする。
 私は“美男子”などとは程遠い。寧ろ不細工でモテないオトコだが、顔に奇形が見られるわけではない。それなのに「体を壊せば、もう会社に行かなくて済む」などという稚拙な発想で、自らの選んだサラリーマン生活を自ら唾棄しているではないか。いつの間にかDNAの忌み嫌う「満足な口で不満を垂れ流す人間」に成り下がってしまったのだと思い知る。
 職が見つからず、街の募金活動を頼らなければならないほど生活に困窮している人も居るというのに、そりゃ時給に換算すればバーガーショップのバイト並みだろうと、平均以上の給料が手に入る大企業の社員の端くれとして働けるのだ。是、この大不況の就職氷河期にあって、自分で勝ち取った幸せではないか。忙しいのも突き詰めれば自己責任。辛酸を嘗めつつも、その中で働き方を工夫していけばいいじゃないか。たんまり稼いで母親に孝行するんだろ?いったい何に文句があると言うのだ。母だけでない。これまで私を育ててくれた沢山の方々の愛情の深さに比べて、私の浅さたるものを、怒りを伴って猛省した。心から自分に恥なるものを感じた。
 「ウニとカエルの発生で、中胚葉のでき方を比較し、その違いを簡潔に述べよ。」というテスト問題に相対し、「ウニの場合は、植物極側の細胞が胞胚内(卵割腔)に落ち込んで、第一・第二間充織になり、それが中胚葉となる。カエルの場合は、陥入のとき、内胚葉と中胚葉の分離が進み、中胚葉は原腸の背側を、内胚葉は原腸の腹側を囲む形となる。」という聢とした回答で答案用紙を埋めていた「高校生の私」のほうが、知識は疎か生きる姿勢まで、物の見事に「社会人の私」より高次元だったというわけだ。生命は進化を前提としているようだが、20代後半の一時期、私は退化の道を彷徨っていたのである。ヒトの尻尾が消失したように、退化と進化は常に表裏一体だとも云うけれど、到底慰めになるものではない。
 人間なんて生まれながらにして不平等なのだ。その中で、あの少女の美醜を超越した勉強熱心さは、勇気を奮い起こす契機となった。こういう気持ちが人として正しいのかという疑念も抱きつつも、私は「皆と同じ容姿」に生まれてこなかった人が、その逆境と不自由を克服しようとする努力に対して、感動を隠し切れない。健気であって反骨な精神、不屈であって謙虚な信念、過去の私にもそういう炎のようなものが燃えていた筈なのだが、愚かにも卒業と同時に高校の校舎へ置き去りにしてしまったということだろう。
 
 「いいか、日頃から不平不満ばっかり垂れ流してるのが人間だけど、反省するのも人間だけだな。動物は反省する暇があったら次の行動に移すのみ、とも云えるけれど、そこはまあ反省する力を人間に宿してくれただけで、神様も捨てたもんじゃないじゃないか。ああ、因みに『神様』ってものを崇拝しているのも人間だけだな。神様を作り出すくらいしか自分を救う方法が無いのかもな、オレもそうだけど。」――そういえば中学校の理科の先生も自然科学の神秘性をよく語ってくれたものだったが、まさか高校の生物の先生までも神を語るとは思いもしなかった。
 「でも、神とか仏とかの在り方って、人間の作り物だけに、その時代の人間の都合で決まっちゃうっていうか、結構いい加減なところもあるんだぜ。意外だろ。」とDNAは付け足す。だが、本当に「意外」だったのは、美術の先生がその辺りに詳しいということだった・・・つづく

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