見出し画像

【生物】弁えず 世の為などと 言うなかれ

 「礼子の部署で、課長から全員へこんなメールが届いたらしいの。見て見て!」と春恵さんから転送メールが届く。この一文のみで、野次馬根性に満ちた彼女の笑みが容易に想像できる。
 「昨日より体調は良いのですが、相変わらず声がほとんど出ません。すいませんが、私宛の電話を受けた場合はメールで用件を送ってもらうように相手方へお伝えください。アドレスをご存じない等、どうしようもない際は出ます。よろしくお願いします。」
 私がメールを読み終えたのを見計らっていたかのように、春恵さんがわざわざ私のデスクに近づいてくる。「読んだ?なかなかミステリアスな事件ですよ、コレ」「ただの風邪だろ?暇なヤツだな~」「何よ、私だって忙しいわ。『忙中閑あり』って慣用句を知らんのかね、チミは。」「レイコさんって、あのDXのプロジェクトメンバーの?」「それは『玲子』よ。やなくて、お礼のレイ、礼儀作法の『礼子』のほうよ。」――復習すると、結婚相手アリの礼子さんは“有ん子”、相手ナシの玲子さんは“無き子”、小柄な礼子さんは“蟻んこ”、泣き虫の玲子さんは“泣き子”と呼ばれていた。あだ名というのは残酷だ。“アリん子”のほうの礼子さんは、もともと環境対策の職務経験が評価されたのか、SDGsのプロジェクトメンバーに属している。その部署で声の「持続可能性」を失ったのが課長さんという次第だ。上手いことに、否、彼女の計算通りなのか、ストーリーが展開し始めると、ちょうど昼休憩のチャイムが鳴る。
 「さあて、課長の身に一体何が起きたのか?思い付いた人から手を挙げてください。」と、勝手に“大喜利”を仕切り出す春恵師匠。後輩達も何名か参戦して悪ノリする。「ハイ!ハイハイ!」「それじゃあ、金太くん」「え~、内緒にしていましたが、私の趣味は声楽で、稽古に夢中になり過ぎました。が、歌を忘れたカナリア気取りで実は自分に陶酔中。」「おっ、最初にしてはいいねえ、座布団1枚!」「はい!」「では、銀之助くん」「私の愛するペットはカナリアです。ところが数日前からご機嫌斜め。鋭い嘴で喉を攻撃されました。」「おっ、カナリアに被せてくるとはねえ、これも1枚!」「ハイ!」「銅丸くん」「今まで私は一人っ子だと思っていましたが、急に田舎から弟が訪ねてきて、双子だと知りました。絶句のあまり、そのまま声が出なくなってしまいました。」「オジサンになってから自分のコピーみてえのが『会いたかった、兄さん』って玄関先に立ってたら、そりゃ会社に来ただけでも偉いねえ。よっ、これにも座布団やってくれ!じゃあ、最後に鉄吉くん」「私にはロクな電話が掛かってこないので、単純に出たくないのであります、はい。」「そりゃダメだ。仮病で職場放棄とは頂けないねえ。座布団取っちゃいなさい。」――阿呆を言いながら弁当を食し終えると、ちょうど午後の始業のチャイムが鳴った。
 春恵さんは社内外のあらゆる物事に接する姿勢が至って楽観的だった。「まるで他人事?だって、ワタシ、医者とちゃうもん。課長の治療方法は判らんやん。まあ、こうやって笑いにしてるうちに課長も治るわよ、きっと。それにクスリ飲んでカラダ治すのも本人の仕事でしょ。ワタシの仕事とちゃうもん。何だか大変そうやし心配やけど、かといって私にはどうすることもできひん。せやし、他人事でしゃあないやん。でも、他人事(ひとごと)って素敵なコトバねえ。『他人』と書いて『ひと』と読む。『他』は発音せえへん。せやから一見『他人』扱いのようで、そのくせ『無関係な余所の事』とは決して思ってへん風情を残してる響きがええやんか。まっ、結局は無関係なんやけどな。SDGsだけに『生態』を守るのも大事やけど『声帯』のほうもお大事に。地球も職場も環境第一!」――ここまで「他人事」と言い切って、あっけらかんとされると、もはや見習うべき生き様の境地だ。
 
 不思議なものだが、他人事と聞いて、ふと頭に思い浮かぶのはいつも環境問題。春恵さんも私に同意見だった。
 「ある国で旱魃の影響により湖の水位が低下したら、過去に水没していた遺跡が出現し、考古学に多大なる成果を齎した」といった類のニュースを耳にして以来、異常気象というのも一概に忌々しい話とは限らぬではないかと馬鹿馬鹿しくなり、全ての尤もらしく語られる環境問題を一蹴することとしている。そりゃ、旱魃に伴う食糧高騰は困り物だけど、それもまたビジネスに吸収されてしまう話だし、飢餓の理由にしたって本質を追及すれば環境問題とは別物だ。屁理屈でも偏屈でも無い。一度甘い汁を吸ってしまった人類が、文明に固執せず、文化に回帰するなんて土台無理。なれば、地球温暖化で一旦諸々の産物を水没させてしまえば、現世のしょうもない文明も、後世の考古学者が嬉々とするような文化財として生まれ変わることだろう。
 「未来の子供達のため」と豪語している連中が挙って「現在の自分達のため」金儲けに暴走している現実――この茶番をすっかり見飽きた私は、環境活動の放つ“自称善人”の悪臭が鼻先に纏わり付くようになってしまった。環境うんぬん含めてSDGsなるものに本気で向き合うならば根本的にどうしても不可欠となってくる「知足」の精神が「不足」している。「油を使わない電気自動車を推奨しようじゃないか」「いやいや、発電にも油を使うじゃないか」「原子力発電にすればいいじゃないか」って論争ひとつにも決着が付かず、誰ひとりとして「自動車や電気を使わなくても済む手立て」については提案しない世の中だ。既得権益を捨てて何かを我慢するくらいの度量や気骨は微塵も無い。故に、私は、サラリーマンに課された業務命令としてSDGsなるものに従うのみ。法令遵守や企業イメージ向上といった社業の一環として従うのみ。そこに崇高な理念などは一切介在せず、ただ賃金奴隷として給料を貰う立場上従うのみ。
 だいたい環境活動って、しつこい押し売りに似た印象がある上、「売上の一部を社会貢献に」といった迫り方をしてくるため、「お断りします!」と言わせない雰囲気がますます厄介なのだ。面倒だから態々反論はしないが、「サステナブルって簡単に口にしますが、あなた、例えば私生活でも、本当にスーパーで賞味期限の近い食品から積極的に購入していますか?ゴミの削減と分別を徹底していますか?エコマークの付いた商品なら、すぐ横に並んでいる通常品より値段が高くても買っていますか?」と問いたくなる。凡人の正義感ほど巷に疑わしきものは無い。美しき仮面を被った醜さが垣間見える。いっそのこと欲望に正直な金儲けで構わないから、せめてその正直さを保ったまま、商売にも正直さを心掛けてほしい。予め堂々と「私は地球環境をカネの道具だと捉えている悪人です」と宣言されたほうが信用できるし、寧ろ「この如何わしいセールスマンの提案に少しは協力してやろうか」「仕方なく世の為人の為ってフリだけでも付き合ってやるとするか」といった気分にもなれるというものだ。その“嫌々ながらのお付き合い”の中に1つでも“地球に役立つ真実”が潜んでいたら御の字であり、それくらいの心構えでないと、元来我儘に設計されている人類が「持続可能な開発目標」なんて掲げたところで、その目標自体が持続しないのではないか。
 そもそも地球温暖化の科学的な根拠や因果関係、対処方法を巡っても、未だに賛否が分かれている。賛否どちらの立場も消滅しそうにない現状を踏まえると、1つの結論に軍配が上がることは期待できそうにないし、ましてや真偽の程など私にはとても見破れない。両方とも嘘かもしれない。こうした情況にも拘らず、「地球にやさしいことをしよう」という極めて抽象的な呼び掛けに価値観と生活を拘束されるのは真っ平御免。「百年後、千年後の人類には私の関心が及びません」と言い切ってしまうのも、地球を居住地とする各人に委ねられた自由の範疇ではないのか。
 
 この価値観、高校生だった約30年前から一貫しているのだが、むろん高校生の頃には「世間体」なるものに阻まれて言い出せなかった。従って、「生物」の授業は嫌いでは無かったけれど、環境問題を取り扱う時間ばかりは苦痛で堪らなかった。提出するレポートに書き残したことも本音に背いた嘘だらけで、自分自身にウンザリしていた。平気で嘘を吐くオトナになれるのも学校教育の賜物と云えよう。
 
 レポートは計3回だった。第1回は「酸性雨について述べよ」。これに対して私は次の通り「述べた」。
 「酸性雨の被害が確実に世界に広がってきている。酸性雨が降る要因は、急速な産業発展と共に、硫黄酸化物や窒素酸化物が放出されるようになり、これが大気中における化学変化によって硫酸や硝酸に変わり、雨や雪に溶けていると考えられる。そして、その被害は『もらい公害』と名付けられているように、先進工業国だけの問題として考えてはならない。
 被害はまず湖沼や河川から始まった。雨や雪に溶けた酸性物質が流れ込んで、湖沼が酸性化すると、敏感なプランクトン類や水生生物が減少し、これをエサにしている魚類の姿が減り始める。さらに酸性が強くなると、卵がかえらなくなり、また有毒金属が溶け出すことで成魚はエラの細胞が傷つけられて絶滅する。スウェーデンやノルウェーで特にこの被害は深刻で、湖沼に据え付けたポンプによって石灰水を定期的に放出することで中和を図っている。
 次いで被害は森林へと移行する。酸性雨が葉の気孔を侵したり、土壌の変質に伴い根を傷めたりして、樹木を弱らせていくのである。これはチェコスロバキアやポーランド等、東欧に深刻な被害が現れている。
 このように見てくると、酸性雨が生態系に及ぼす影響は非常に大きく、今後より一層、世界的規模での努力が望まれる。」・・・北欧の湖沼や東欧の森林を汚した犯人は誰なのか?断定できるのであれば、まず張本人に損害賠償を請求すべき話なのでは?北欧の魚介や東欧の木材が輸入されなければ、やがて日本が滅亡に追い込まれるのか?当時の授業はこの辺りにまで踏み込んでくれなかったが、私からも踏み込もうとはしなかった。どうやら私の衣食住に壊滅的な打撃を与えるテーマでは無さそうな空気感だけは察知したからである。
 
 第2回は「砂漠化について述べよ」。これに対して私は次の通り「述べた」。
 「地球が砂漠化する要因は様々である。古くから沢山の羊が飼われている西アジアでも、この問題は深刻化している。羊はわずかに伸びた草でも食べ尽くしてしまう動物で、飼料の少ない西アジアでは、過放牧による草の減少で土壌が保水力を失い、砂漠化してしまうという。
 五大文明で知られるパキスタンのインダス川流域では、農耕地へ水を引いて灌漑を続けているが、平面的に拡散された灌漑水からは、水分だけが蒸発し、土壌中に塩分が蓄積されているという。この塩害により作物は育たず、もともと少ない植生しか育たないこの地域では、放棄された荒れ農地が今も砂漠化している。
 このような例は世界各地で見られるが、みな降水量が年間500mm以内の地域に限られていることに注目したい。つまり、年間降水量が蒸発量を下回っているために、砂漠化現象が起こりやすいのである。例えば、雨の降る範囲が今よりも南の地域であった氷河時代には、サハラやアラビアの大砂漠も存在していなかったことが証明されている。
 だからといって、我々は氷河時代の到来をじっと待っているわけにはいかない。この地球をどうやって住みよい環境に変えていくかが人類に課せられたテーマであるし、その努力が必要なことは明らかである。また、戦争や核実験によって砂漠を広げないためにも、平和を守っていきたいものである。」・・・西アジアの過放牧やインダス川流域の耕作放棄の犯人は誰なのか?断定できるのであれば、まず張本人に無鉄砲を止めさせるべき話なのでは?止められないとしたら、生活手段を失った人々が難民化し、やがて日本の負担が膨大するのか?当時の授業はこの辺りにまで踏み込んでくれなかったが、私からも踏み込もうとはしなかった。どうやら私の衣食住に壊滅的な打撃を与えるテーマでは無さそうな空気感だけは察知したからである。
 
 第3回は「温暖化について述べよ」。これに対して私は次の通り「述べた」。
 「地球の温暖化とは地球表面の気温が平均して高くなっていくことをいうが、その要因の中でも現在強く論議されているのが『温室効果の加速』である。大気中に放出された二酸化炭素等の微量な気体は、太陽から届く光は通すものの、それを受けて地球が放射する赤外線(熱エネルギー)は吸収するため、地球を温室のように暖めているのである。この『温室効果』が通常に作用すれば、地球の気温は生物の生存に適度に保たれる。しかし、石油や石炭等の化石燃料の大量消費や焼畑農業等、近年の活発な人間活動によって生ずる二酸化炭素の過剰発生、また話題となっているフロンやメタン等のガス放出が、温室効果の加速につながっているわけである。これら温室効果をもたらす気体は『温室効果気体』と呼ばれ、50種を超えるという。
 ハワイ・マウナロアでの観測では、温室効果気体の中で最も代表的な二酸化炭素の濃度が、過去20年間で約10%も増加しているという恐るべき事実が明らかになっている。その他、森林破壊・都市化・人工熱の放出等も温暖化と絡み合い、現在のペースで気温上昇が進むと、2030年には氷山や氷河の一部が解け始めることによって、海面の水位が20~110センチ上昇するとされている。さらに降水パターン等の気候の変化や、土壌中の水分量の変化を引き起こすとまでいわれている。
 肝心な温暖化防止の対策としては、太陽光エネルギーの活用、生産・運輸・消費におけるエネルギー効率の改善、温室効果ガスの排出削減、そして二酸化炭素の吸収源となる熱帯林の破壊防止と植林の拡大等が挙げられるが、一般の人々の間にも地球的規模の環境観を是非とも根付かせたいものである。」・・・私がこれを述べた1993年から数えて、2022年までの約30年の間、アメリカ航空宇宙局(NASA)による人工衛星の観測データを使った分析によると、地球の平均海面は9.1センチ上昇したらしい。これは2030年までに20~110センチ上昇するとの見込が大袈裟だったということか?それとも、2023年以降の残り約8年で急激に上昇ペースが早まるということか?或いは、2022年までの約30年間は人類の叡智と努力によって見込より上昇ペースを抑制できているということか?いずれにせよ、実際にそれ相応の時が経過したというのに、政府も企業も報道もこの辺りの検証や再予測にまで踏み込んでくれないし、私からも踏み込もうとはしない。どうやら私の衣食住に壊滅的な打撃を与えるテーマでは無さそうな空気感だけは察知しているからである。
 高校生の頃の私が「世間体」なるものを気にして環境問題に無頓着な態度を隠していた割には、あれから30も歳を重ねてオトナになってみると、実は私の気にしていた「世間」のほうも環境問題に無頓着だと判った。
 
 これらのレポートを振り返るに、つくづく勉強はしている。が、つくづく虚しい内容だ。内容が無いのが虚しい。「今こういうことが問題ですねえ。皆で対策を検討せねばなりませんねえ。」という論調――是、全部、他人事。そりゃそうだ。了解事項では無いのだから。「どうでもいいです。興味ありません。どうぞ勝手にやってください。私を巻き込まないでください。」が本心だ。まあ、そこまで過剰な感情ならずとも、「地球が危機的だと騒いでいますけど、私に何をせよと言うのですか。私は日々の暮らしの中で具体的にどのような行動をとれば、地球を救えるのでしょうか?」という純粋な質問に、何ら明瞭な指針が示されない現状が訝しいのである。勉強をしたところで、これが皆目見当つかない。
 そもそも、人類が死ぬまでに地球が死ぬなんてことがあるのか?地球の様子が変貌するに連れて、人類もそれに適応することには期待できないのか?将来的に人類が住むに適さなくなるほど地球の様子が変貌してしまうとしても、その頃には他の星へ移住するくらいの科学技術力を持つことには期待できないのか?「疑念」が斯くなるテーマにまで及ぶと、その「疑念」が考えても無駄という「諦念」へと変貌し、どんどん環境問題が他人事となっていく。
 蓋し、環境教育というのは、平和教育に似ている。「実際に酸性化・砂漠化・温暖化が進行すると、いかに我々の日常が不快で不自由なものへと化していくのか」を相当リアルに知らしめなければ、「こりゃあ大変だ!」という気には成れない。「実際に戦争が勃発すると――」という現実的なシミュレーションを見せつけられると、人は初めて戦争に怯え、漸くこれを抑止しようと試みるようになる。根っこの部分で両者は双子の如く似た者同士なのだ。
 
 他人事を自分事にするというのは、それなりに障壁が高い作業なのである。当事者意識と謂うけれど、そりゃ当事者本人でなけりゃ意識は持てない。そりゃ「他人の気持ちになれ」と命じられても、他人と自分とは違う存在なのだから、他人の身の上を自分の事のように受け止められないのは至極当然のこと。突き詰めれば、「他人を助けられない代わりに、他人からの助けも求めない」という哲学が、割り切っているようで、最も他人様に対して誠意ある答えのようにすら思えてくる。人間とはここまで自分本位の傲慢になれるということに慄くも、私にはこれを自浄しようも無い。
 但し、相互扶助の精神が欠如しているのでは無く、他人事だから須らく何もしないということでは無い。仮の話だが、国民に不可欠なモノを作りつつも巨大なCO₂排出源となってしまっている工場なんかは分かりやすいターゲットだろう。生産工程のグリーン化には巨額の設備投資を要するが、これに税金を充当するため、政府が増税を提案したとする。これとて、政治家の考えるべき事であって、私の考えるべき事では無いのだが、私にも持続可能な協力といえば、当該増税に賛成するといった類のことになるのだろう。少なくとも、レジ袋をやめてマイバックを持ち歩いたり、割り箸の材料を木から竹に変えたり、そういう対策に私は未だ疑問を禁じ得ないし、まして環境活動のボランティアなんかに参画したりする程の前向きな意識は無いが、国民生活を防衛するための義務として納税はする。
 やや気恥ずかしいが、私が「他人事」と「自分事」を切り分ける理由は、寧ろ「助け合うなら、口先だけじゃなくて、ちゃんと助け合いたい」からだ。他人様への義理人情を重んずれば、自分の人生を何処かで支えてくれている他人様に対して自分が恩返し出来る範囲や規模は、なるべく正確に把握しておきたいところである。そこで「私は人助けにどれくらい真剣な汗を流せるか」と自問した結果、あまり私は他人様を「実践」では救済できない人間だと自覚したため、その代わりに、せめて「金銭」で奉仕するくらいの心意気と矜恃を大切にしようと決めたのだ。気の進まない環境活動は兎も角、気の進む拠出であれば――例えば「恵まれない子供達への教育活動」といった目的の募金あたりには――私自身が貧乏育ちだった所以もあるが、自ら「給料の何%は必須」というルールを課してまで寄附をしている。「世の為人の為に、事業でも思想でも高尚なる生涯でも貢献できぬ者は、精々カネくらい出せ」という精神は、内村鑑三の『後世への最大遺物』から逆説的に培われたものかもしれない。だからという訳ではないけれど、巷の募金箱や氏神様の賽銭箱に千円札の一枚も入れたことの無いような庶民から、同じ庶民たる私の“他人事精神”を批判される筋合いは無いし、それこそ他人事として放って置いてほしい。
 
 食事の前に「いただきます」と合掌するのは、他の動植物の命を頂いているから。仕事の前に「お世話になります」とお辞儀するのは、仲間が居ないと生計が成り立たないから。私はコンビニで買い物をしても、レジのバイトさんに「ありがとう」と決まって告げる。お店があるおかげで、欲しい商品が手に入るのだから。そうやって身の回りに視界を広げていけば、人生に大切なのは、尊敬・謙譲・丁寧の「言」と、愛・信・義の「動」であるということを心に刻まずには居られない。斯様な「人として当たり前の佇まい」が、環境問題に取り組んでいる世間の現況には今一つ感じられないところに、私なりの蟠りがあるのだ。これはもう、電話を受けられないほど声が出ないのと同様、自分にはコントロール出来かねる私自身の本能と認めざるを得ない。
 私にとって環境問題がどれくらい他人事なのか。そのレベルを敢えて表現するならば、一見『他人』扱いのようで、そのくせ『無関係な余所の事』とは決して思ってへん風情を残してるレベルだろうか。そうだなあ、例示するのが先生には甚だ申し訳ないけれど、やはり苦手だった「物理」を思い出さずにはいられない。あの授業内容も、ちょうど良い塩梅の他人事だった・・・つづく

この記事が参加している募集

SDGsへの向き合い方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?