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【昼休み】透き通る 君泳ぎけり 凪の湖(うみ)

 「ウチの会社、またヘンテコなプロジェクトチーム立ち上げたなあ」「どうせ中途半端なまんま終了すんだろ。最近じゃ『一定の成果を得られたため、発展的に本組織を解消する』って宣言すらしなくなったな。」「そうそう、スタートすん時は『会社の将来を担う』とか『経営層肝入りで全社一丸』とか豪語すっくせに、ゴールすん時は具体的な成功事例を残したって印象が現場には全く無い。いつの間にか『ああ、そんなプロジェクトもあったな』って感じで、誰も覚えちゃいない。」「けど『前回のプロジェクトは失敗でしたよね』『今回のプロジェクトも無駄ではないでしょうか』って、誰も絶対に言わねえよな。」「その通り!そりゃあ保身が一番大事だけど、反省してみっとかさあ、問題提起すら冷静に試みようとしない雰囲気はさすがにマズいよなあ。」「どうして職場にアンケートをとって、それをフィードバックするくらいのことをしねえんだろうな。アレ、昔っから不思議だわ。オレ達から意見を収集しようとすんのって組合くらいじゃねえか。ハハハ、実は組合よりも会社のほうが会社の将来を何にも考えてない。」「いや~、プロジェクトの効果検証を社内報告するって言っても、正確には20点くらいしかない成果を役員に怒られないよう何とか75点くらいに膨らませるのがオチだろう。」「それもそうだな。『プロジェクトのどこがダメだったのか要因分析はしないのか?』なんて野次を飛ばしたら、逆に『それは良い考えだ。今すぐ目標の達成度合いをマトリックス図にする作業から始めよう!』なんて指示が跳ね返ってきそうだわ。捏ち上げの片棒を担がされた上に残業が増えるばっかで何の得もねえな。」「そうそう、過去を振り返るために残業するくらいなら、次のくだらないプロジェクトの準備にその時間を振り向けたほうがまだマシってことよ。きっとみんなもこんな具合で『黙っているのが得策だ』って選択をしてんだろ。」・・・まだランチタイムだというのに、まるで残業帰りの居酒屋の如く、お隣で繰り広げられる会社員の愚痴。東京のサラリーマンだからといって、都会的なビジネストークを交わしているわけではない。何処の会社も似たようなものだと腹の中で嗤いながら、天丼を一口一口念入りに味わう。口の中に『禁じられた遊び』の主題曲『愛のロマンス』が流れる。天才ナルシソ・イエペスのクラシックギターと共に海老の尾の香ばしさまで噛み締める。禁じられると食したくなるのが人情というものだ。
 出張で東京に来た時、一人で過ごせる自由時間さえあれば、必ず食べようと計画するものが3つある。
 ①甘辛い濃い目のタレに潜らせた天丼。――京都では天丼は天つゆを掛けた物なのである。勿論これはこれで美味しいのだが、天つゆで頂くのなら態々ドンブリ飯に乗せずとも「天ぷら定食」で足りる話だ。関西の方々は口を揃えて東の天丼の甘さと黒さが苦手だと評すけれど、これとて経験者の談であり、天丼に東西の違いがあること自体を知らない人も相当数に及ぶ。私自身も西の天丼に困惑したのは京都へ転勤した後のことだった。両者の違いはざっくり云えば醤油の薄口・濃口と味醂の量の違いに過ぎないのだが、もはや同じ名称の料理に括ってよいのかという疑念を伴うほど――互いに言えることだが――初対面時の衝撃はなかなかのものである。そもそも天婦羅という食べ物自体、江戸の屋台が発祥で、客へ安く提供するために、あまり新鮮でない魚介も仕入れたものだから、高温の胡麻油でカラッと揚げていたと云うし、生臭さを消すために黒砂糖と醤油と酒を煮詰めたタレを用意したと云う。よって、タレは甘いほうが「正統な元祖」という次第だ。
 ②鶏がらスープに鳴門と焼海苔をトッピングした醤油ラーメン。――京都では豚骨スープをブレンドした物やコッテリとした背脂を浮かせた物が多く、トッピングも青ネギがスタンダードだ。勿論これはこれで美味しいのだが、そもそも鳴門に至っては大規模なスーパーでないと手に入らないような土地柄である。禁じられた環境に身を置くと、ますます昔ながらの中華そばが恋しくなるのは必定だ。同じ魚のすり身でも、蒲鉾より「つなぎ」の量が多い分、あの独特の食感を有する渦巻が主役を見事に引き立てる。鳴門無き拉麺など拉麺に非ず。尚、東京では炒飯にも細かく刻んだ鳴門が入っているのだが、是非ラーメンとコンビで注文したいところである。厳密には玉子を鍋へ流し込む順番の違いらしいが、関東の「チャーハン」と関西の「焼き飯」もまた別物の料理なのだ。
 ③シンプルに寒天と餡子と豆と果物だけ。そこに、飽和溶液となるまでザラメを弱火で煮詰めた証として、その粒の僅かなる残存を舌の上で確かめられるほど濃厚な黒蜜の掛かった餡蜜。――京都では寒天を抹茶味にしてみたり、わらび餅を入れてみたり、善哉風にアレンジしてみたり、やや洒落を利かせすぎている観がある。勿論これはこれで美味しいのだが、さらに和菓子と言えば京都なのだが、甘味の聖地の餡蜜は東京人の想像するものとは少々風情が異なるのだ。
 
 暖簾をくぐるや否や、腰掛けぬうちに「餡蜜下さい」と告げる。孤児院へと連れ去られたポーレットに再会を果たせると知ったら、やはりミシェルだって椅子に座る間も待たず彼女の名を叫んだことだろう。私の脳内を再びあのギターの名曲が包み込む。
 「ハイ、御待遠様」――「おまちどおさま」が「御待遠様」に聞こえる――その漢字の姿までもが耳に響くようなお婆さんの丁寧な声とともに、鉢と、匙と、そして冷たい緑茶が運ばれる。
 粒餡ながら小豆の皮が口中に残らないどころか、その舌触りたるや余りに滑らかなゆえ、自ずから粗さを求め、キラキラした寒天の間を泳ぐ豆――みつ豆の「豆」即ち茹でた赤エンドウマメ――を掬い上げたくなる。缶詰の黄桃や桜桃も定番だが、役者はこれのみではない。季節の果実の特別出演が円形の舞台に華を添える。今日みたいな風鈴の短冊がひらりとも揺れぬ真夏日は、まさに水菓子と称すに相応しい西瓜や甜瓜の競演が有難い。むろん餡も蜜も、それを口に含んだ瞬間、虫歯でもない歯にまで痛みが走るのではないかと不安を覚えるほど砂糖を贅沢に使った「上等品」であることは言うまでもない。
 ちょっと「上等品」については蛇足をついつい加えたくなる。もともと砂糖を惜しまないのが“ごく普通”の製法であったのに、時代が「カロリーオフ」やら「減塩」やら「甘さ控えめ」やら、そんな代物を志向するようになった成り行きから、従来品が自らの意志とは無関係に“上等品”へと格上げされただけのこと。健康への気遣いは否定しないが、伝統は伝統として守り抜いてほしいと切に願うばかりだ。
 そんな砂糖たっぷりの謂わば“直球的”な甘味のゾーンへ西瓜や甜瓜のような水気を帯びた“変化球的”な甘味を投入すると、双方相容れないのではないかと思いきや、これが実に妙々たる組み合わせなのである。一気に幅の生まれたピッチングが、打席に立つ私をきりきり舞いにさせる。
 慌しく匙を動かす手を無理やり制止すると、ようやく緑茶の出番となる。丹念に茶葉から氷出しにしたものだろう。涼やかな江戸切子のグラスに漂う芳しさたるや自販機の茶の比ではない。高校時代の「政治・経済」の先生が「今は、急須で淹れたお茶とさほど遜色ない品質のペット商品が出回っています。まだまだ急須のほうが美味しいけどね。」と仰せだったことが思い出される。まして私の目の前に差し出された茶には急須をも超越した手間隙が掛けられているのだ。
 茶の一服を挟んだことによって一旦リセットされた打席上では、先般のストレートボールがさらに速く見える。仕舞いには、饂飩の汁を一滴も残さない人のように、鉢ごと両手で持ち上げて90度傾ける。許されることならば、犬猫さながら底まで舐めてしまいたくなるほど私を虜にする逸品。これ程までに愛おしく絶佳なる餡蜜は、世界広しと雖も東京にしか見当たらない。
 鉢の中の“小宇宙”を平らげ、勘定を済ませると、私はもう1つの“小宇宙”を愛でることとなる。店内の大きな金魚鉢の中、寒天に値するほど透き通った光沢の鱗を湛え、あんこ型の力士に似たランチュウがユラユラと泳いでいるではないか。あんこ型の「あんこ」とは残念ながら「餡子」のことではないけれど、そっぷ型の「そっぷ」とは「スープ」のこと――そう、私の大好物の醤油ラーメンに使われる鶏がらのように痩せているというのが語源だ。このランチュウに私は「凪の湖(なぎのうみ)」という四股名を勝手に授け、「ご馳走様」とお辞儀をしてから本日三度目の炎天下に躰を晒す。
 
 相変わらず気温30度を超える真夏日――金魚は夏の季語なのに、水温が30度を超えると衰弱してしまうから、外で飼うのは止めたらしい。とは申せ、暦の上では今日から9月――丁度100年前のこの日、まさに昼休みのこの時間帯、東京は推定10万人を超える死者と行方不明者が出るという惨烈極まりない光景の只中にあった。すぐ先の上野公園には住処を失った何十万人もの被災者が身を寄せていたという。
 疲弊した人々を救ったボランティアの多くに京都の方々が居たことを、私たち東京を故郷とする者は決して忘れてはならない。関東大震災――その白黒映像には、京都の医療従事者の派遣や学生による募金活動などの様子が記録されている。西本願寺の「鴻の間」は一堂に会した人々で立錐の余地もない。23区の約4割が焼かれた東京へ衣類を送り届けるため、針仕事や運搬に老若男女が一致団結。その奉仕の精神に感涙が止まらない。
 東の京都と書いて「東京都」――天丼やラーメンや餡蜜の味こそ異なれど、私の祖先を献身的に助けてくれた洛中の街に、その子孫たる私が暮らして20年近くになる。氏神様の祭祀に寄附をしたり、地蔵盆の雑務を引き受けたり、そんな事しか出来ないけれど、それは謙遜などではなく本当に微力そのものなのだけど、古の都にほんの少しでも恩返しをすることによって東京っ子の心意気を示したい。
 そんな思いを巡らせば、今度は“第二のふるさと”と呼んでも過言ではない京都の味が欲しくなる。出汁と薄口醤油をベースに、味醂や酒や砂糖や、適度に塩まで絶妙にブレンドした関西風の饂飩つゆ――中学の修学旅行で初めて出会ったが――あれは他に類を見ない無双の旨さだ・・・つづく

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